紙芝居の話

紙芝居を知っていますか?

いまもイベントなんかに行くと、出ていたりする。

図書館なんかにも、あるんじゃないかなぁ。図書館の紙芝居は、ボランティアのお兄さん、お姉さんが、曜日を決めて、やってくれたりすることもあるし、高学年の子供たちで借りて、低学年の子供たちにやってみせてあげるような学校行事もあるんじゃないかなぁ。

イベントの紙芝居は、なかなか面白い。絵も昔の絵で。ようするに昭和30年代の再現みたいな感じなのかなぁ。

 

紙芝居のおじさんは自転車に乗って来る

 

昭和40年代に小学生だった筆者は、実はほんの数回だが、紙芝居を見た経験がある。

近所の児童公園におじさんは来ていた。紙芝居はおじさんだった。おじいさんだったかもしれない。女性はいなかったし、若い人もいなかった。

自転車に紙芝居と、お菓子の箱を積んで来る。お菓子の箱の中には、薄い煎餅や、麩菓子、水飴なんかが入っている。水飴は割り箸にまいてくれて、決してうまいとは言えないジャムをつけてくれる。ジャムも苺じゃない。みかんとか、梅とか、しかもやたら甘いだけのジャムだ。煎餅にも確かジャムを塗っていたような記憶がある。

子供たちが集まって来て、お菓子を売る。水飴が50円くらいだったと記憶している。他のものはいくらだったかなぁ。

で、しばらく売って、いなくなっちゃう時もある。子供たちの集まりがいいと、紙芝居をはじめる。あちらも商売だから。結局、この菓子の売り上げが少なければ、別の場所でもう一商売と思うのだろう。

紙芝居は30分くらい。最初に、「なぞなぞ」みたいのをやって、あとは子供が主人公の、なんか話だ。記憶なんていうのは曖昧だ。なんの話かなんてまるで覚えていない。だが、子供が主人公で、当時テレビでやっていた「ケンちゃんシリーズ」みたいな話だったような気がする。

後年、資料で見た「黄金バット」とか、「怪人二十面相」なんかの紙芝居は当時は見たことがない。見たことがないなんて断定することはない。私が見たのも、たぶん五回あるかないかくらい。だから、どっか別の場所ではやっていたのかもしれない。そのくらい紙芝居のおじさんが来ることは滅多になかったし、実は親に紙芝居の水飴を買って食べた話をしたら、滅茶苦茶怒られた記憶もある。

 

紙芝居とは何か

 

黄金バット」の作者、加太こうじ氏(1918~98)は作家として小説も書いているし、昔の芸能や風俗に関するエッセイも多数執筆されているが、もともとは紙芝居をやっていたらしい。そのことをご自身のエッセイでも書かれている。

 話は戦前だ。もともと高市(祭りの縁日)で人形劇を見せていたのが、紙芝居のルーツらしい。歌舞伎のネタとか、「西遊記」なんかの活劇物をやり、子供たちに人気だった。関東大震災で失業者が町にあふれ、生活のために、路上で人形劇を子供たち相手に見せる人たちが現われた。この時に、高市では入場料をとっていたのを、駄菓子を売って入場料代わりにするというシステムをはじめたと加太氏は書いている。

ところが路上で人形劇をやっていた人たちがある日、警察の摘発を受けた。お菓子屋の組合が訴えたらしい。「失業者が子供たちに菓子を売っている。風紀上問題がある」

その時、ある青年が人形劇ではなく絵本の説明というやり方をはじめた。教育的な絵本であるから、風紀の問題はない、この理屈には警察も何も言えなかったらしい。絵本の説明、これが紙芝居のはじまりで、それが工夫され、昭和のはじめには紙芝居として全国展開し、まさに子供たちの人気を集める。

テレビなんかない。ラジオはあるが、NHKしか放送していないし、まだ各家庭にあるわけではない。ラジオのある家でも、神棚か仏壇の横に鎮座していた。NHKは子供番組も放送していたが、よほど裕福な家でないと、子供はラジオなんか聞かせてもらえない。むしろ子供も親と一緒に広沢虎造浪曲清水次郎長伝」を聞かされていた。だから、いま90歳くらいの爺さんは「旅行けば~」なんて浪曲をうなれたりする。

そんな話はどうでもいい。テレビもなく、ラジオはあっても子供が聞くことのできない時代、紙芝居は子供たちの最高の娯楽だった。

 

何故紙芝居の物語は面白かったのか

 

絵本の説明をはじめた青年が、加太こうじ氏だった。そして加太氏は紙芝居で「黄金バット」を発表する。円盤に乗ってやってくる地球征服を企む怪人ナゾーと、正義の博士たちが戦うのだが、博士たちがピンチになった時に現われるのが、骸骨姿の正義の味方、黄金バットである。

映画的なテンポのある展開と、物語もSFで、これが子供たちの心を掴まないわけがなかった。

昭和7年には、全国の子供たちが「黄金バット」に胸踊らせた。昭和12年には、絵の製造とリースをする会社ができ、どんどん面白い物語や絵が作られて人気を博していった。

きっかけは加太こうじ氏の「黄金バット」だった。

しかし、当時、左翼くずれの知識人でまともな職業に就けずに、紙芝居になる人が何人かいた。そうした知識人たちが、紙芝居の物語を作っていた。だから、SFや、推理もの、妖怪もの、もちろん、教育的なお話も、子供たちが喜びそうな話が量産されていったのだ。

紙芝居の最初の衰退は、戦争だ。太平洋戦争が激化し、疎開で街に子供たちがいなくなると、紙芝居は一気にすたれてしまった。

 

戦後は復員兵の失業対策

 

戦後、多くの復員兵が戻ってきたが、彼らには仕事がなかった。街に失業者が溢れていた。そんな中で政府は、復員兵の失業者に紙芝居になることを奨励していた時期があったという。もともと失業者たちがはじめた仕事である。絵を描いたり物語を作ったりするのとは別に、子供相手の語りでそんなに芸は必要ない。むしろ、素人芸で、お父さんやお兄さんがお話を聞かせるというほうが好まれたのだ。最盛期には紙芝居屋は五万人を超えていたと言われている。それが昭和30年頃まで続いた。

一気に衰退するのはテレビの登場からだ。昭和28年にはじまったテレビは、昭和33年の皇太子ご成婚、昭和38年の東京オリンピックで飛躍してゆく。昭和34年には、紙芝居屋は千人に減ってしまった。そして、昭和40年代にはほとんど街から姿を消していた。

 

心に残る紙芝居

 

絵を見せて語り、菓子を売って収入を得る紙芝居は、テレビ時代に衰退した。

イベントの紙芝居にノスタルジーを感じるのは、せいぜいが我々の世代までだ。

一方で今日でも、図書館などに紙芝居は残っている。

教育の世界で、紙芝居はまだ生きている。

何故か。動かない絵に、子供たちが興味を持つのだ。アニメで慣れた子供たちにも、ただの絵に惹かれるものがある。そして、語りだ。俳優や落語家がやるようなうまい語りでなく、お兄さんお姉さんの一生懸命な語りに、子供たちは惹きつけられる。

実は筆者は紙芝居を見たことは数回しかないが、やったことはずいぶんある。というのも小学校六年くらいの頃に、低学年の教室で紙芝居をやる係をやったことがある。もちろん「黄金バツト」でも「西遊記」でもない。「トマトの冒険」とか、そういうヤツ。トマトを擬人化して、畑から食卓までの流通を面白く説明したもの。そういうのを読んだ。あの時経験した低学年の子供たちの真剣なまなざしは、実はいまでも忘れられないものがある。

ただの六年生のお兄さんが読む、そんなものだ。そんなものが、結構低学年の心に刻まれるとしたら、すごいことだ。

だから、今でも紙芝居が教育現場では、用いられ続けている。

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