私がサッカーを嫌いな理由
いま、この原稿を書いている時点で、テレビでは「サッカーワールドカップ」の試合をやっているらしい。
別に関心もないし、というより、私はサッカーっていうスポーツが好きではない。
私が好きではないだけで、他の人が好きでも、その人のことを否定はしない。
事実、友達にもサッカー好きは何人かいる。
中には、海外の試合に応援に行く、もの好きもいたりする。
海外旅行に行って、サッカーの試合を見て面白いのか。海外旅行は、景勝や名所旧跡なんかを見たり、南の島でのんびりしたり、日本で見られない演劇とか見たり、普段食べない料理を食べたり、地元の人たちと触れ合ったりするものなんじゃないのか。もっとも、フーリガンと殴り合いでもすれば、貴重な触れ合いになるのか。
全体主義に嫌気かぜさす
私がなんでサッカーが嫌いか。
まず第一に、全体主義が嫌いだ。一丸となって日本を応援する、みたいな。さっきフーリガンと言ったが、応援するのは勝手だが、自分の応援しているチームが負けたからって暴徒と化すことはあるまい。たかが試合だ。勝つもあれば負けるもある。そら、選手は給料が掛かっているから、負けるわけにはいかんだろうが、ただ応援しているだけの我々がなんであそこまで熱くなれるのか。
そら見知らぬ国同士の試合よりも、なじみの国が出ていて、その国を応援したほうがスポーツ観戦は楽しいだろう。国内の試合だって、たとえば大学や高校の試合に母校が出ていれば応援したくなるのは人情だ。それと一緒で、国際試合に日本が出ていれば、日本を応援したくなる気持ちはわかる。選手の名前だって知っているだろうし、応援しやすくもある。だからと言って、日本を応援しなくちゃいけないわけでもあるまい。
日本対外国の試合で、日本を応援しなければ「非国民」みたいな風潮が嫌なのだ。それは何もサッカーに限った話ではない。他のスポーツにもあることだが、ワールドカップやJリーグや、日本人選手の海外での活躍でサッカー人気が盛り上がるにつれ、日本人なら日本を応援という風潮が、とりわけ強まっている気がする。
私だって、日本を応援したい気持ちはある。あるけれど、「応援しなくちゃならない」と言われると、「なんで?」と言いたくなる。
相手チームにファンの選手がいるかもしれないし、何度か行ったことのある国だったり。日本の次に好きな国だったら、日本を応援しながらも相手チームを応援したっていいじゃないか。客観的に、どっちが勝とうが負けようが、試合を楽しむ、選手のテクニックを楽しむ、そういうスポーツ観戦のやり方だってある。
それをサッカー観戦に関しては認めようとしない。そういう風潮がまず嫌いだ。
サッカーは新自由主義
それは君がサッカーを知らないから、そんなことを言うんだ。
応援で皆で盛り上がるのは楽しいよ。
楽しくはないと思う。
確かに、私はサッカーをよく知らない。知らないものは「興味がない」くらいに言って、黙って見なければいいだけだと思う。「嫌い」だなんて言って、わざわざ「好き」な人の反感を買うこともあるまい。
そのくらいはわかっている。わかっている上で、自分の意思表示として「嫌い」と言っておきたいので、あえて書く。
好きな人を批判はしない。勝手に応援していてくれ。だが、私は「嫌い」だからね。
私もルールくらいは知っている。子供の頃はやったことだってある。別に選手だったわけじゃないよ。男子は皆、一応はやるんだ。木と木の間がゴールでさ。ただボール蹴っているだけ。それでも、やったはやった。そこそこ楽しかったと思う。子供だから。何も考えずにボールを思いっきり蹴れば、多分楽しいと思う。
あと、体育の授業でもやった。だから、ルールも知っている。
サッカーには反則に厳しい。プロなら、レッドカードとかイエローカードとかいうペナルティもある。
そら、サッカーでキーパー以外がボールを手でもって走ったら、サッカーじゃなくなる。オフサイドありなら、ぽこぽこ点も入るだろう。ボールを持っていない選手を押したり蹴ったりは危険だ。アメリカンフットボールじゃないが、危険なプレイは命取りにもなりかねない。だから、厳しく禁じられている、はずだよね。
ところがサッカーの試合を見ていると、反則プレイは実に多い。しかも反則プレイをしても、審判にみつからなければペナルティを取られない。
相撲なら「もの言い」がつくが、誰も手を上げない。っていうか、サッカー場のまわりには審判員はいない。フィールド上にいる審判が審判で彼に見咎められなければ、反則にならない。もっと言えば、いかに審判の目を盗んで反則をして味方を有利に導くか、そういうスポーツなんじゃないかと、私は思う。
よく知らないからね。間違っていたら、ごめんなさい。
それが、たとえば、学生の試合はあまり反則がないのに、レッドカードとかイエローカード取られるような選手権やプロの選手になると、反則の率が高まるような気がするが、それは私の気のせいでしょうか。
勝負はね、勝つか負けるか、あるいは勝っても負けても楽しければいいというスポーツもある。プロや、国の看板背負った国際試合は楽しければいいってことはない。勝たねばならない。とくにトーナメントなら、負けたら終わりだ。プロ野球みたいに、勝ったり負けたりしながら、最終的に一番勝ってりゃ優勝とか、相撲みたいに勝ったり負けたりして、なんとかむ8勝すれば番付が下がらないとか、そういうのもあるけれど、たいていのスポーツには負けは許されない。
勝つためには、技術を磨くというのがあるが、サッカーの場合、審判に見咎められないように反則をするというのも技術のうちである、というのがあるのではなかろうか。しかもそれが命取りになりかねない危険な反則プレイの場合がままあるのだ。
それはいまの時代を象徴しているとも言えなくはない。
経済において、多少のアンフェアなことをやっても、勝ちは勝ちという風潮だ。
昔から「勝てば官軍」という言葉がある。過程はどうでもいい。勝てばいい。一生懸命、真面目に努力しました、なんていうのはどうでもいい。多少、こずるく立ち回ろうと、勝てばいいんだ。
もちろん、サッカーがすべからくそんなプレイばかりではない。
すばらしいディフェンス、オフェンスの応酬で、難い守りをくぐりぬけてゴールが決まった感動は、そら、見ていて熱くなるけれども。
でも、まれに見掛ける、咎められない反則プレイを見ていると、現代の新自由主義の、勝てば何やってもいいんだよ、人を踏みつけにしてもいい。負けた奴は、うまく立ち回れなかった弱者で、そんな奴に手なんか差し伸べる必要はない。という景色に似ているなぁ、と思ってしまう。
もっとも、サッカーの選手たちは勝っても負けても、お互いの雄姿を称え合って、さっきまでの敵味方が抱き合ったり、ユニホームを交換したりもしている。その姿は感動的なんだけれどもね。その頃、試合会場の外ではフーリガンが乱闘してたり。
ええ。そんなわけで、「私はサッカーも嫌い」だし、「新自由主義はもっと嫌い」である。