戦国武将敗者の話その3

戦国武将の敗者の話の続き。

戦国大名の群雄割拠の図を見ていて思った。上杉、武田、毛利……、戦国大名たちは、信長、秀吉、家康に対抗し、敗れ、消えていった大名もいれば、生き残った大名もいる。敗者たちのその後を追ってみたい。

 

大大名として残った者たち

 

九州の島津や、中国の毛利は江戸時代も大名として残り、幕末には、その家臣たちが明治維新の原動力となった。

他の大名たちはどうなったか。

武田信玄川中島で戦った上杉謙信、そのあとを継いだ景勝は豊臣秀吉に臣従し、会津に国替えになり120万石を得た。秀吉の東北戦略の要として置かれたのだ。しかし、関ヶ原の戦い徳川家康に対抗し、米沢に移され1/4の30万石に減らされてしまう。さらには、景勝の孫の代には跡継ぎがいなく、上杉家存亡の危機を迎える。吉良家から養子をもらい、15万石に減らされて、なんとか上杉家は命脈を保つ。この時の養子が、「忠臣蔵」の吉良上野介の息子である。

江戸後期には上杉鷹山のような名君も現われた。幕末には奥羽越列藩同盟に加わるも、早くに官軍に降伏、上杉家として明治を迎えた。

奥州の独眼流、伊達政宗は、秀吉の小田原征伐で秀吉に臣従、関ヶ原では家康に従い、仙台62万石を安堵された。

北条氏と戦った常陸の佐竹氏も秀吉の小田原征伐で秀吉に臣従、しかし、関ヶ原では中立の立場をとったため、出羽に国替えを命じられた。出羽で20万石を領し、現在の秋田県知事も佐竹氏から出ている。

 

小大名、旗本として命脈を保った者たち

 

前回、関東の覇者だった北条氏が河内で一万石の大名として残ったということを書いた。

桶狭間の戦いで討ち死にした駿遠三の三カ国の大名、今川義元、その息子の氏真は、その後も徳川、武田と戦い続けていたが、敗れて北条氏を頼った。北条氏が滅びたあとは家康に助けを求め、近江に500石の領地を与えられ、その後、高家にとりたてられた。

上杉と覇を競った武田氏は信長に天目山に滅ぼされたが、武田勝頼の弟、信親の息子、信道は逃走し、元武田の臣で家康の臣となった大久保長安に匿われた。長安の死後、家康は長安の横領事件を追及し、信道は連座で大島に流罪となった。信道の子の代に許され、孫の道興が高家に取り立てられ、甲斐に500石を与えられた。

伊達政宗と奥州の覇を競った最上氏、最上義光が秀吉に臣従し、山形城に24万石を安堵された。関ヶ原では家康に組し、上杉景勝を攻め、57万石に加増された。しかし、義光の後継争いが起こり、お家騒動となり最上家は改易となる。由緒ある最上家が滅びることは惜しまれ、5000石の旗本として残った。義光の四男は山野辺氏を名乗り、水戸家の家老となった。講談で水戸黄門に肥え桶を担がされる山野辺某が子孫である。

 

 

滅びてしまった戦国大名

 

前回書いた四国の長宗我部氏のように滅びてしまった大名も多くいた。

九州で、肥前を中心に北九州を支配した龍造寺氏、九州攻めに来た秀吉に従い、島津を攻めるが、龍造寺隆信が討ち死にする。龍造寺家は肥前半分を秀吉に安堵されるが、隆信の孫の代で絶え、龍造寺家の臣であった鍋島家が肥前を治める。鍋島の化け猫騒動は、龍造寺氏が飼っていた猫が鍋島家に祟る話である。

豊後の大名、大友宗麟も秀吉に臣従する。島津との戦いで功を上げ豊後を安堵される。しかし、宗麟の死後、跡を継いだ義統は朝鮮征伐で敵前逃亡、秀吉の怒りを買い改易となる。関ヶ原で西軍に組し再起を計るが、黒田官兵衛に敗北した。義統の息子、義乗が徳川の旗本に取り立てられるが、跡継ぎがなく家は断絶する。

山陰の尼子氏は毛利氏と戦うが敗れ、出雲を追われる。織田信長を頼り、播磨上月城を与えられ毛利と戦うも敗れ、尼子勝久は自害し尼子氏は滅びた。尼子義久は毛利氏に庇護され、その子孫は毛利氏の臣として尼子の名は残した。

北近江の浅井氏、越前の朝倉氏は信長と戦い、滅ぼされた。朝倉の一族で、徳川の旗本となった者もいた。

安房で北条氏と戦っていた里見氏、のちに「南総里見八犬伝」でも知られる。安房、上総、下総の一部を領したが、秀吉の小田原征伐ののち安房一国を安堵された。関ヶ原では東軍に組し、安房の他に飛び地を含め12万石に加増された。しかし、徳川幕府にしてみれば、江戸の目と鼻の先の安房に10万石の外様大名がいるのは、決して気分のいいものではなかった。ほぼ難癖に近い理由で、実質配流扱いの国替えをさせられ、里見家は滅びた。

 

実力だけではない。家が生き残るには運不運もあるのか。いや、戦国時代を生き抜いた家をさらに残してゆくには、処世術も重要なのかもしれない。

戦国武将、並大抵のことでは生き残るのも難しい。それでも負けても負けても生き残る者もいる。生き残った大名からは、学ぶものも多いだろう。