水戸黄門はホントに漫遊をしたのか?

「漫遊なんて、するわけない」

話は終わってしまう。

多分、してはいないと思う。してないんだけれど。テレビでもおなじみだし。いまはもうやってはいないが、1969年~2015年まで、TBSで月曜夜の8時という、ゴールデンタイムに時代劇「水戸黄門」は放送されていて、高視聴率を取っていた。

徳川家康の孫で水戸藩主、前の中納言、天下の副将軍の徳川光圀が、隠居したのち、諸国を漫遊して悪を懲らして世直しをするという話。

TBSでは、東野英治郎西村晃佐野浅夫石坂浩二里見浩太朗が光圀役をつとめた。2017年にはBS放送で武田鉄矢と続いた。その前は、映画の時代で、水戸黄門と言えば、月形龍之介の専売特許だった。

さらに前は、講談、浪曲の「水戸黄門漫遊記」がおなじみで、こちらは関西のお笑い系のネタだった。東京の講談では、光圀伝と、漫遊記の両方がある。助さん格さんを供に連れて漫遊する前に一度、松雪庵元起という俳諧師と二人で東北を旅している。松尾芭蕉の「おくの細道」にヒントを得たものなのだろう。松雪庵元起は越後高田24万石の家老の息子で、お家騒動解決のために光圀を越後に連れて行くのが目的だったという物語になっている。

その後、助さん、格さんを連れて東海道から西国まで旅をする。助さん、格さんの他に、講談、浪曲では、九紋龍の長次という元盗賊が旅に加わる。忍術を使える一方で、ちょっと間抜けで、食いしん坊というコメディリリーフで、TBS版で活躍する風車の弥七うっかり八兵衛を併せたようなキャラクターである。

ちなみに、2002年から13年間、黄門役を務めた里見浩太朗は、東野英治郎の後半から西村晃の前半(1971~1988)に助さん、東映月形龍之介で格さんを何作か演じている。格、助、黄門と演じているのは里見くらいだろう。

 

助さん格さんは実在の人物

 

水戸駅の北口には、助さん、格さんを従えた光圀の銅像が建っている。ちなみに南口には納豆の像が建っている。納豆の像は藁にくるまった納豆のモニュメントで、なかなかユニークである。それはどうでもいい。

助さん、格さんは実在の人物である。

助さんはドラマでは佐々木助三郎、実名は佐々宗淳、格さんはドラマでは渥美格之進、実名は安積覚兵衛、ともに儒者で、なんでこの二人が黄門の供のモデルになったのかと言うと、光圀が「大日本史」編纂のため、全国の資料を収集するために全国に遣わせた儒者の中に、佐々と安積がいたそうだ。

大日本史」とは光圀が編纂をはじめた歴史書で、神武天皇から後小松天皇(南北朝の統一)までを記した。光圀亡き後も水戸藩の事業として続けられ、幕末の尊王運動に影響を与えた。

ちなみに格さんの墓は、水戸市内にあり、墓地には「格さんの墓」という幟が立っている。観光で訪れる人もいるのだろう。

 

黄門は中納言の意味

 

徳川光圀は、1628~1701。徳川頼房の三男で、家康の孫に当たる。尾張紀州と並ぶ御三家のひとつ水戸の藩主で、徳川将軍家に後継者がいない時に、尾張紀州のいずれかより将軍を出し、水戸は副将軍を務める立場にあった。

実際には、七代将軍に後継者がなく、紀州から吉宗が八代将軍。十三代将軍に後継者がなく、また紀州から家茂が十四代将軍、その家茂にも後継者がなく、十五代、最後の将軍は一橋家に養子に行ったとはいえ、水戸出身の慶喜がなった。

若き日の光圀はかなりヤンチャをしていたらしい。講談のエピソードでは、頼房が若き日の光圀のヤンチャを懲らすために、一人で刑場から「生首を持って来い」と命じたら持って来た。「怖くはなかったのか」と問えば、「怖いのは生きている人間で、死んだ人間が怖いわけはない」と言ったという。なかなか胆の据わったヤンチャぶりだ。

実兄、頼近が妾腹であったため水戸家を継ぐことが出来ず、讃岐高松藩主となる。そこで、光圀は、自分の後継者に頼近り子を迎え、自らの子を高松藩主とした。兄を重んじる儒教の教えに従ってのことだ。

1661年(寛文1)、水戸藩主となり、中納言の官位を受ける。ちなみに「黄門」というのは唐の国の中納言の呼称で、長安の黄門を守備する役職だったから。だから、中納言は「黄門」なのだが、「祖師を日蓮、大師を弘法」と言うように、「黄門と言えば水戸」なのである。その代々の「水戸黄門」の中でも、「水戸黄門と言えば光圀」なのは、やはり講談、そして、映画、さらには高視聴率のドラマの影響が大きい。

1690年(元禄3)に隠居し、翌年、西山荘に移り隠棲、このおり佐々宗淳、安積覚兵衛らが同道したという。以後、亡くなるまでの10年間を西山荘で過ごす。この間に、漫遊の伝説が生まれた。

たとえば、講談で、湊川の地(いまの神戸)を訪れた黄門一行が楠木正成の荒れ果てた墓を建て直すエピソードがある。墓の建造―には金が掛かるので、大名行列で通り掛かる大大名から光圀自らが寄付を頼むという話。頼むんじゃないね。だって、光圀に頼まれて「嫌」と言う大名はいないから、早い話が権力者による略奪みたいなものだけれど、後醍醐天皇に忠義を尽くした英雄、楠木正成の墓を建造するという大儀がある。いや、目的が崇高なだけに、ますます「寄付は嫌」とは言えない。

これなども実際は人づてに楠木正成の墓が荒れ果てていると聞き、光圀が声を掛けて寄付を集めたという話がもとになっている。

 

光圀語録

 

光圀語録というか、いくつか名言も残している。

「気は長く、勤めは堅く、色薄く、食細うして、心広かれ」

ようは人間、寛容の心を持てという意味なんだろう。「食細うして」はドラマではよく食いしん坊の八兵衛を怒っているが、「色薄く」は自身が若き日のヤンチャ時代は、色に迷ったこともあったらしいから、あんまり偉そうなことは言えまい。むしろ、若き日に迷ったればこそ、しみじみ戒めているというのもあるかもしれない。

「見ればただなんの苦もなき水鳥の、足に暇なき我が思いかな」

多分、水鳥が足を動かしているのは、さほどの苦労でもないと思うが。まさに、「人生、楽そうに見えても苦がある」ということを言いたいのだろう。