戦国武将敗者の話その4

戦国武将敗者の話、もう一回だけ。

信長、秀吉の家臣団には、上杉、武田、毛利、今川、北条などに匹敵する名将もいた。しかし、信長家臣団は秀吉に敗れて消えていったり、臣従して生き残ったり、臣従しても潰されたり、また秀吉家臣団は関ヶ原が分かれ目となり、ある者は大名として、ある者は旗本として残ったり、滅びた者たちもいた。

少し追い掛けてみたい。

 

信長生存中に消された重臣

 

実は信長生存中にも、信長の手で消された武将たちはいた。天下統一のためには非情になり、尾張からの譜代の重臣でも容赦なく消されていった。

 

林通勝 織田家の家老だ。はじめ信長の弟、信行に仕え信長と戦うが、柴田勝家とともに信長に敗れるが許され、以後、織田家の筆頭家老として辣腕をふるう。天正8年、突然、追放され、失意のうちに死去する。一族の者も追放されたが、子の一吉は本能寺の変ののちに山内一豊に仕え、土佐窪川の代官となった。

 

佐久間信盛 信長譜代の武将で、一向一揆、浅井、朝倉との戦いで功を上げる。天正8年、林通勝とともに追放される。高野山で隠棲し、2年後死去。

息子たちは許され、嫡男信栄は信忠、信雄に仕えた。信雄失脚後、茶人となり、のちに徳川秀忠の御伽衆として3000石与えられる。養子の信重の子孫が旗本として佐久間家を残した。

 

林、佐久間の追放で、明智光秀は次は自分が粛清されると思い本能寺の変の引鉄となった説もあり、また、佐久間が担っていた近畿の統治を光秀が受け継ぎ、近畿の大名たちの味方を得たことで、信長亡き後、近畿を掌握できると思ったことも本能寺の変の後押しをしたとも言われている。

 

秀吉に敗れたり臣従した織田の宿将たち

 

明智光秀山崎の戦いで秀吉に敗れ、逃げる途中、農民に殺される。光秀は生きていて、家康の側近、天海になった説もある。

一族も山崎の戦いで討ち死に。細川忠興の妻となっていたガラシャが生き残り、忠興との間の子が細川家を継いだ。

 

柴田勝家林通勝亡き後、織田の筆頭家老となるが、信長亡き後、秀吉と戦い敗れ、越前北の庄(現在の福井)で自害する。一族は討たれ、養子の勝豊は秀吉に寝返るが、勝家没後すぐに病死。

 

滝川一益織田家重臣の一人で、本能寺の変のおりは関東攻略の指揮官だった。信長の死を知った北条氏の反撃で、命からがら逃げ延びたことで、権力争いから脱落。秀吉と勝家の争いでは勝家側に就き、最後まで善戦するも敗退し、隠居する。小牧長久手の戦いでは秀吉側で、織田信雄側の武将を調略、3000石の領地を得る。天正14年病没。

長男一忠は小牧長久手の戦いで失策し、追放となった。孫の代に徳川の旗本となる。

次男一時は秀吉に使え1万2000石、その後、家康に仕える。一時没後、豊臣家に領地を取り上げられ、結局は徳川の旗本として残った。

 

丹羽長秀織田家重臣の中でも早くから親秀吉派の一人だった。勝家が秀吉に敗れた後は、越前と加賀の一部で123万石を治める。天正13年病没。

息子、長重が跡を継ぐと、秀吉は領地の大半を召し上げる。長秀亡き後、織田の重臣勢力の縮小を計ったわけで、秀吉の狡猾さがわかる。江戸時代、常陸江戸崎に2万石、その後、二本松に移り、丹羽家は明治まで続いた。

 

池田恒興も親秀吉派。柴田勝家との戦いで秀吉側となり、美濃13万石。小牧長久手の戦いでも秀吉側で参戦するが、討ち死に。

跡を継いだ輝政は九州征伐などに参戦、三河吉田(今の豊橋)で15万石、関ヶ原では東軍で活躍し、播磨52万石を得る。池田家は備前因幡と転じ明治まで続く。

 

佐々成政は勝家側に就くが敗れ降伏、しかし、越中を安堵される。小牧長久手の戦いでは、飛騨山脈を越えて家康を動かそうとするが失敗、秀吉に富山を攻められ降伏、領地を没収され秀吉の御伽衆となった。秀吉、ここまでは成政にかなり肝要である。

九州征伐で功を上げ、肥後一国の領主となる。ところが、一揆が勃発、肥後の統治が出来ず、切腹させられる。子らは合戦で討ち死にし、後継はいなかった。姉の子孫が水戸家に仕え、「水戸黄門」でおなじみの助さん(佐々宗淳)が子孫だと言う。

 

前田利家は親秀吉派。勝家の与力だったが、秀吉側に寝返り、秀吉に臣従し豊臣家の重臣となる。加賀に100万石を得る。

 

細川藤孝は元は足利家の重臣。15代将軍義昭の擁立で信長を頼った。信長の信頼厚く、丹後南半分を領する。息子忠興は明智光秀の娘ガラシャを娶ねも、本能寺の変では反明智に転じる。

関ヶ原の戦いでは、忠興は家康に従軍。領地を西軍に攻められた藤孝は少数で田辺城を2ヶ月守った。関ヶ原後、忠興は豊前小倉39万9000石を与えられる。忠興のあとは三男忠利が継ぎ、肥後熊本54万石に加増された。子孫は首相の細川護煕がいる。

 

秀吉の家臣たち

 

蜂須賀小六は秀吉の初期の頃からの家臣。元は野武士。木下藤吉郎時代からの、あらゆる合戦に側近として従軍している。四国攻めのあと、息子の家政が阿波一国17万石となる。

小六没後、家政は加藤清正らと石田三成と対抗、東軍に組する。大坂の陣後、淡路を追加され、25万7000石を領した。

黒田官兵衛は秀吉の軍師として活躍。元は播磨の国人。九州征伐の後、豊前中津川に15万石を与えられる。天正17年家督を長政に譲り、自らは秀吉の側近となる。朝鮮の役でも軍監として従軍する。

関ヶ原は長政は東軍で参加、官兵衛は九州の西軍を次々に破り、戦後、逃げてくる島津の軍船を沈めた。これらの功で筑前名張52万石に加増、慶長9年官兵衛没。長政は福岡の街を開発し居城とし、明治まで続く。

 

竹中半兵衛は秀吉の初期の軍師。元は美濃の国人で、秀吉が三顧の礼で軍師に迎えた。天正7年病没。

息子の重門は九州征伐小田原征伐に従軍し、美濃に5000石を得る。関ヶ原では黒田長政に加勢し、小西行長を捕らえるなどの功を上げた。結局、大名にはなれず、家康の旗本となる。

 

秀吉には子飼いの若い武将たちがいた。まずは勝家との戦いで功を上げた賎ヶ岳七本槍のその後から。

加藤清正佐々成政の後あとを受けて肥後の領主となり、統治に成功する。朝鮮の役で活躍、関ヶ原では東軍。肥後一国52万石となる。慶長15年病没。清正没後改易され、三男忠広は出羽庄内の酒田で1万石を与えられた。

福島正則九州征伐の後、伊予今治11万石、朝鮮の役で活躍、関ヶ原は東軍で宇喜多軍と戦う。毛利のあとを受け、安芸広島42万石となる。徳川の難癖で、信濃川中島45000石に減封。寛永元年、正則没で、そりも取り上げられ、子孫は旗本として残った。

加藤嘉明は四国攻めの後、淡路1万5000石。朝鮮の役では水軍の副将、関ヶ原では東軍。伊予20万石となる。大坂の陣では息子明成が秀忠軍に従軍し活躍。寛永4年、会津43万石に加増転封。寛永8年嘉明没後、お家騒動などで改易。明成の庶子が近江水口2万石で残った。

脇坂安治加藤嘉明とともに水軍を指揮。関ヶ原で東軍。伊予大洲5万石を得る。

片桐克元は秀吉の側近として、多くの戦いに従軍。摂津などに1万石を領した。関ヶ原の戦いは西軍に組するも、徳川と豊臣の交渉役として働き、家康より大和に2万4000石を与えられる。以後は秀頼の側近として大坂城に入る。大坂の陣の直前に、裏切り者の汚名を着て、大坂城を追放となる。大坂の陣のあとすぐ病没。大和の所領は息子が継ぐも、数代のちに断絶。

平野長泰は小牧長久手の戦いなどで活躍し、大和に5000石。関ヶ原では秀忠軍に従軍していたので手柄は立てられず、旗本として明治まで残る。

糟谷武則は戦いには参加するも、いずれも後陣を守り手柄を上げられず。それでも播磨加古川で1万2000石の大名となった。関ヶ原では西軍、宇喜多軍に属し、敗れて改易となる。晩年は不明。諸説ある。

 

関ヶ原で明暗をわけた二人。

宇喜多秀家は、備前の国人、宇喜多直家の息子で、秀吉の養子となり、前田利家の娘、豪姫を娶る。四国攻め、九州征伐で活躍し、備前、美作、播磨などに57万石を領する。朝鮮の役の後、五大老の一人となる。関ヶ原で西軍に組し、捕らわれ八丈島流罪となる。子孫は浮田と改め八丈島で明治を迎える。

小早川秀秋は、秀吉の正室、寧の甥に当たる。小早川家の養子となる。官位は中納言、もしも秀頼が生まれず、秀次が早世したら、秀秋が豊臣家を継いでいたかもしれない。朝鮮の役にも参加した、実は武闘派でもあるが、帰国後、筑前の小早川領は取り上げられ、越前15万石に減封されている。関ヶ原でははじめ西軍に就くも、東軍に寝返り、東軍を勝利に導いた。その功で旧宇喜多領を得るが、秀秋は2年後病没。裏切られて討ち死にした大谷吉継の祟りとも言われている。秀秋没後、跡継ぎがいず小早川家は改易となる。

 

出世した秀吉の家臣たちもいる。

山内一豊織田家の一家臣。秀吉の家臣となり、四国攻めの後、近江長浜2万石、小田原征伐の後、遠江掛川5万石、関ヶ原では東軍に就き、土佐一国20万となる。

藤堂高虎は近江の生まれと言われているが、浪人から羽柴秀長に仕えた。賎ヶ岳の戦いにも従軍、四国攻めの後、1万石の大名に取り立てられる。朝鮮の役の後、伊予宇和島7万石、関ヶ原で東軍に就き、今治を所領に加え20万石となる。家康の信頼を得て、その後、伊勢、伊賀に22万石に加増転封される。

 

いろんな策謀うずまく戦国時代の話は、面う