戦国武将敗者の物語

ゲームやアニメの影響か、戦国武将が流行している。織田信長上杉謙信が妙にイケメンな奴。

信長や謙信の生き方も面白いかもしれないけれど、戦国時代は勝つか負けるか。そして、歴史は勝者が作る。だけどね、負けた方の生き様も、ちょっと見てみたいとは思いませんか。

今川義元みたいにスパッと討ち死に、松永久秀みたいに城と茶器ごと爆死、石田三成みたいに捕まって首を斬られる、そういう負け方もあるけれど、降参して許されたが、歴史の表舞台から消えていった戦国武将もいた。そんな武将たちが、負けたあと、どう生きたのか。面白そうだから、調べてみました。

 

将軍様のその後

 

最初は大物からゆこう。室町幕府15代将軍、足利義昭。信長のバックアップで、というか傀儡として15代将軍となるも、やがて信長と対立、武田信玄、浅井、朝倉、毛利、石山本願寺らと秘かに手を組み信長包囲網を固めて、信長を追い込んだ。しかし、信長を怒らせ京を追われ、室町幕府は滅亡、義昭は追放され、毛利家を頼り隠棲した。

さて、隠棲したあと、義昭はどうなったか。

毛利家の庇護のもと、備後の鞆に隠棲する。隠棲したって、北条や上杉に書状を送り復権を試みるがうまくゆかない。そうとう執念深いね。やがて、本能寺の変が起きて、信長は死に、豊臣秀吉の時代になる。

九州平定に向かう秀吉に会い、そののち京へ戻り、山城に一万石の領地をもらった。そして、秀吉の御伽衆となる。

一万石というと捨て扶持みたいだけれど、敗軍の将だ。首を斬られるか、出家させられてどっかの寺に軟禁されても仕方がない者には、優遇された処遇だろう。

御伽衆というのは、大名の幇間みたいなものと勘違いされているが、実際は政治顧問みたいな立場である。義昭の場合、元将軍で朝廷や元室町幕府の高官などの人脈もあり、秀吉には重宝されたのであろう。一万石は案外妥当な報酬だったのかもしれない。

慶長2年、秀吉が亡くなる一年前に、61歳で亡くなった。

 

信長後継争いに敗れ

 

秀吉の御伽衆には、他にも大物の敗者がいる。

織田信長の次男、織田信雄だ。

本能寺の変で、信長と、信長の長男、信忠が亡くなったあと、当然、信長の後継者に名乗り出る。清洲会議では、秀吉や三男の信孝と対立。賤ヶ岳の戦いでは、秀吉に組し、柴田勝家と信孝を破る。

しかし、天下は秀吉のものとなる。信雄は伊勢で百万石の領地を有しているが、信長後継者として天下への野心はあった。

信雄は徳川家康に接近し、小牧長久手の戦いで、秀吉に挑む。しかし、秀吉軍に伊勢に攻め込まれ、あっさり降伏。信雄を押して戦いをはじめた家康の梯子をはずした形になり、信雄は武将としての信頼を失った。

秀吉天下統一の後、遠江への転封を拒み、信雄は追放される。下野の山奥で出家させられた。2年の間、軟禁生活を送ったのち、家康の仲介で大和に1万8000石の領地をもらい秀吉の御伽衆となった。

小牧長久手で梯子をはずされた家康が、信雄の復権に尽力したというのが面白い。しかし、信長後継者だった信雄が一国の大名にもなれず、御伽衆としての復権というのは、ある意味、家康の報復だったのかもしれない。義昭同様、秀吉にとっては信長次男の信雄は、旧織田勢力の人脈を有するので御伽衆としての利用価値は大きかった。

関ヶ原では中立、大坂の陣では徳川方に組した。ために、大坂の陣ののち、家康から大和で5万石の大名に取り立てられた。

その後は茶道などに興じながら、寛永7年、73歳で亡くなった。子孫は大名として、廃藩置県まで存続した。

 

信長の息子たちのその後

 

本能寺の変で信長と長男の信忠が死に、信長後継争いは、次男の信雄、三男の信孝がデットヒートを繰り広げたが、信長の息子は三人だけではない。他の息子たちはその後、どうなたのか。

四男秀勝、信長存命中に秀吉の養子となる。天正13年、18歳で病没。

五男勝長、本能寺の変で信忠とともに討ち死に。

六男信秀、秀吉に仕え、一万石程度の大名として列席。官位は従四位下と高い。キリシタンに改宗。没年不詳。

七男信高、氏家卜全に養育されたのち、秀吉に仕え、近江などに2000石の領地をもらう。慶長7年、28歳で病没。スケートの織田信成はここの末裔と言われている。

八男信吉、秀吉に仕え、近江で2000石。関ヶ原で西軍に組し、敗戦後、豊臣家を頼り大坂で暮らす。大坂夏の陣前に病没43歳。

九男信貞、はじめ信雄に仕え、のちに秀吉の馬廻として1000石。関ヶ原で西軍に組するも、信長の息子であるところから許され、家康に仕える。寛永1年、51歳で没。

十男信好、秀吉の臣となり、慶長14年没。

十一男長次、秀吉の臣となる。関ヶ原で西軍に組し、戦死。

信孝以降は幼少だったため、織田家親族家臣団の後継争いに参加することなく、秀吉に従った者が多かったようだ。信長の息子だからと言って、決して厚遇はされていないが、何かの時には伝家の宝刀となり、命拾いしたりもしているようだ。

 

信長・信玄の血を引く織田家当主

 

秀吉が織田家の後継者として押したのは、織田信忠の息子、三法師(のたの秀信)だ。

三法師の母は、政略結婚で信忠に嫁した、武田信玄の娘、松姫。つまり、三法師は信長と信玄の孫という、血筋で言えば最強である。

清洲会議の時は3歳であったが、次男信雄、三男信孝よりも、長男信忠の息子が後継になるのが筋だ。後継者は三法師となり、その後見争いが信雄、信孝で繰り広げられる。

だが、秀吉は織田家の後継なんてどうでもいい。めざすものは天下の後継者だった。

秀吉は朝廷より関白太政大臣に任ぜられた。三法師も秀信となり、従四位侍従に任官した。秀吉はもちろん、織田家の臣だった前田利家よりも下の官位になる。その後は秀吉参加の一大名として、小田原征伐にも従軍した。

時の流れには逆らえないということか。力あるものが勝ち残る、それが戦国時代である。

美濃国を治め岐阜城の城主だった秀信は、関が原の戦いで西軍に組した。戦勝後、美濃・尾張二ヶ国を与えるとの石田三成との約束があった。信長・信玄の血を引く信長後継者はもはや天下人への野心はないが、大大名にはなりたかった。

だが、関ヶ原の前哨戦で岐阜城で家康軍と戦った秀信だが、あっさり降伏。家臣の多くは討ち死にや自害した。

秀信は囚われたが、家康も信長・信玄の孫は殺せず、高野山に追放となった。しかし、高野山はかつて信長が攻めた寺。そこでの風当たりはかなり辛かった。不遇のうちに、28歳でなくなった。

一説に、秀信は遊芸を好む派手好みの人だったと言われている。武将としての器より、遊芸の素質を信長より引き継いだのか。そんなことでも天下取りより、日々の楽しいことのほうが好きだったのかもしれない。一方、優秀な家臣がいたからかもしれないが、美濃の内政では能力を発揮したそうで、秀信時代の美濃は治安もよく、民はつつがなく暮らしていたそうだ。もし秀信が10年早く生まれていれば、秀吉の天下はなかったかもしれない。

 

負けて歴史の表から去った戦国武将のその後、面白いと思いませんか。時代の流れに翻弄されたり、うまく時の権力者に従い、そこそこの地位を得たり。ドラマチックではないにしろ、人間としての生き方が見られます。いずれ調べて、また、ご紹介いたしましょう。