「そば」と「うどん」の話

東西の食文化の違いはよく言われているが、比較されるものに「そば」と「うどん」がある。関東人が好むのが「そば」、関西人が好むのが「うどん」だ。

 

「そば」の歴史

 

「そば」はもともとは代用食だった。米の食べられない地方の農村で、団子や餅やそばがきにして食していた。

今日、我々が食している細い麺状の「そば」として登場するのは、江戸時代、明暦の頃(一六五五)といわれている。「うどん」を模して細い「そば」に作られた。そば粉はうどん粉と違って麺状にはならないため、つなぎに工夫がなされた。俗に二八そばというのは、「そば粉が八割でつなぎが二割」などと言われている。そば粉八割では、かなりパサパサしていたようだ。

落語などでは、「そば」一杯の値段が、一六文だったところから、二×八で一六文の洒落で「二八そば」などと呼ばれた。一六文は江戸の後期でだいたい四百円くらいと思ってよい。

江戸も二六八年あるから、物価もまちまちで、一六文だとは一概には言えない。幕府がデフレ政策で物価を抑制した寛政の頃は、「そば」の値段も一四文になり「二七そば」と呼ばれていた時代もあったし、幕末のインフレの時代には二四文に値上がりしたそうだ。

 

「うどん」の歴史

 

一方の「うどん」である。うどんの歴史は、平安時代にさかのぼる。弘法大師空海)が中国から伝えたというのは伝説だろうが、讃岐うどんなんていうのもあるから、あながち嘘話とも言えないかもしれない。

庶民の食べ物となったのは、室町時代。江戸時代になると、田舎の村々で麺類の製造が行われ街道筋の茶店などでうどんの販売が行われ、それが江戸や京、大坂でも食されるようになった。

「うどん」も最初は麺状ではなく、ワンタンみたいな形で汁に浸して食べていた。やがて色々工夫がされ麺状になった。そばが登場する前は、東西問わず、麺類と言えば「うどん」だった。それが江戸では「そば」が流行し、関東の「そば」に関西の「うどん」の二大食文化圏が形成された。現代でも、関西に行けば、「うどん」である。

 

江戸っ子はそばが好き

 

江戸っ子が「そば」好きな理由は簡単だ。

「早い、安い、うまい」。

かけそばなら、さっと茹でて汁を掛けて出すだけだから、すぐに食べられる。値段は安価だ。江戸も後期になれば、出汁などに工夫もされて、うまい「そば」が食べられたのだろう。

江戸は外食産業が発展した。江戸庶民の住宅事情が理由だ。江戸庶民の住宅は狭かった。独身男性の多くが住んでいた俗に九尺二間といわれる長屋の面積は約三坪。寝起きするだけで、家で調理をして食事をするには負担が大きい。そんな住宅にも土間の台所はあったが、米を炊くへっつい(竈)があるくらいで、他の煮炊きの設備はなかった。米の飯は炊いて食うが、おかずは沢庵か梅干だけというのが江戸の庶民の食生活。

だから、よく外食をしたのだ。寿司、そば、天ぷら、鰻、煮売りの惣菜‥‥。中でも、江戸の庶民にもっとも愛されたのは、「そば」だった。

どんな「そば」が江戸っ子に好まれたのか。落語の「時そば」の科白に、江戸っ子の好んだ「そば」が描かれているので紹介しよう。

麺は、細くてポキポキしてるのがいい。出汁は、鰹節をおごったものがいい。丼は奇麗で、箸は割り箸、塗り箸や一度使った割ってある箸はいけない。先っぽが濡れていたり葱がぶらさがってるなんてえのは論外。そして、種物と言われるそばの具は何が好まれたのか。「時そば」では、「花巻」に「しっぽく」が登場する。「花巻」は海苔のかかったそばで、これは現在の東京のそば屋でもよく見掛ける。「しっぽく」は東京のそば屋にはあまりない。蒲鉾、しいたけ、玉子焼きなど色々な具の乗ったちょっと豪華なもので、現在では関西風のうどん屋で食べることが出来る。もっとも、「時そば」に出て来る「しっぽく」は竹輪が一枚ようやく入っているだけのごくシンプルなものである。

二八そば、夜鷹そばと呼ばれる屋台の荷担ぎそば屋がたいそう流行した江戸の街で、現在のような店舗営業のそば屋が登場するのは、江戸も後期になってからだ。たちどころに需要が増え、町内に一軒は、そば屋があった。

メニューは、もり、かけが一六文、花巻、しっぽくが二四文、天ぷらそば、卵とじが三二文‥‥。これは幕末より少し前の頃の基本的な値段の一例で、店によっても時代によっても異なったであろう。せいぜいが海苔か竹輪を乗せた、花巻、しっぽくしか出せない屋台のそば屋と違い、天ぷらや卵とじもメニューに加わったというのが、店舗営業のそば屋のいいところだろう。現在にないメニューでは、貝柱を乗せた「あられそば」などというのもあったそうだ。

もりそばは、食事というよりも、おやつ代わり。二、三枚も腹に入れようじゃないかという町内の連中が集まって来て、わいわいやっていた。床屋や湯屋(銭湯)同様、そば屋も江戸っ子たちの社交場のひとつだったのだろう。

 

「きつね」と「たぬき」東西の違い

 

メニューの話が出たついで。

東京では現在でも、「きつね」「たぬき」というメニューがある。

「きつね」は醤油で甘辛く煮た油揚げが入っている。「たぬき」は揚げ玉が入っている。どちらも、「そば」か「うどん」を選べる。

ところが関西では事情が違う。関西には「きつねそば」「たぬきうどん」というメニューはない。「きつね」「たぬき」というメニューはある。関西では、「きつね」と言えば「うどん」のことで、「たぬき」と言えば「そば」。どちらも油揚げが入っている。

つまり、東京で言う「きつねうどん」が関西では「きつね」、「きつねそば」が「たぬき」になる。

では、揚げ玉、つまり天かすの入っている「うどん」はなんと言うのか。

関西のうどん屋では、揚げ玉はサービス品。無料で入れられる。「そば」「うどん」を注文すれば、揚げ玉は入れ放題なのだ。

関西人に、「東京では揚げ玉の入ったうどんをたぬきうどんと言って、かけうどんよりも値段が高い」と言うと、

「東京のうどん屋はがめつい」と言われる。

関西人にがめついと言われちゃ世話はない。

ちなみに、蒲鉾や筍、鳴門なんかが入って、おかめの顔にデコレーションした東京の「おかめそば」は関西にはないらしい。

「そば」「うどん」のメニュー一つでも、東西で異なる文化がある。

 

江戸っ子は何故うどんが嫌いか

 

江戸っ子は「早い、安い、うまい」の「そば」が好き。

似たような麺類、いや、歴史的に言えば、「うどん」を模して「そば」は作られたにも関わらず、「うどん」は実に評判が悪い。

理由は、「遅い、高い、まずいかどうかはともかく、そばのようなうまさはない」。

太くて、ネチネチして、歯ごたえが悪い。そばは噛まずにツルツルツルといけるのに、同じ麺類でも、うどんはツルツルツルなんてやったら喉にへばりついちゃう。第一芯まで熱々だから火傷でもしかねない。ニチャニチャニチャと噛んで食うのが江戸っ子には歯がゆい。

栄養があって腹いっぱいにはなるが、胃にもたれる。

鍋焼きうどんだから、作るのにも時間がかかるし、具が入っていて値段も高い。

売り声がまた間抜けだ。「なーべやーき、うどーん」。妙にのばして声をあげるのが野暮ったい。

ようは、うどんなんて江戸っ子の食い物じゃねえ、田舎者の食い物ということだ。

しかし、江戸の街にはそば屋だけでなく、うどん屋も営業していた。

何故だ?

関西人の食い物と言われながらも、江戸でもうどんが食されたのは、江戸が田舎者の街だったからだ。江戸っ子と言ったって、もとを正せば地方から出て来た労働者が多い。それが何年かの時を経て、江戸の水で洗練されて、ようやく江戸っ子になるのである。江戸っ子未満の田舎者が大勢ひしめいていたのが江戸という街なのだ。

それと、江戸の冬はとにかく寒かった。底冷えのする寒さ。加えて筑波おろしが吹きすさぶ。冬の寒い晩には、炬燵や火鉢では足りない。腹から温まるものが欲しい。そんな時には、熱々のうどんを時間を掛けて、口の中から腹の中に熱さを感じならが食すのは、まさに至福のひと時であったろう。

寒い晩ばかりは江戸っ子返上、なんていう人も多かったのではないか。