桂歌丸さんを勝手に悼む

桂歌丸さんの訃報をネットのニュースで知った。

今年は落語家さんがよく亡くなる。月亭可朝さん、古今亭志ん駒さん、立川左談次さん、都家歌六さん、柳家小蝠さん……、他にも関西の落語家さんで亡くなった方が何人かいる。

桂歌丸さん、人気テレビ番組「笑点」でおなじみだったから、メディアなどでも大きく取り上げられている。国立演芸場で「真景累ヶ淵」や「怪談牡丹灯篭」など、明治時代の名人、三遊亭圓朝が作った人情噺、怪談噺の連続公演も行っていたことも、ネットの記事などでも取り上げられていた。ツィッターフェイスブックなど、多くの人が現代の名人の死を悼んでいる。多くの人たちにその話芸が愛されていた。

 

桂歌丸、7月2日、慢性閉塞肺疾患で亡くなる。81歳。

 

笑点」の人気者

 

笑点」、今でもたまに見ます。日曜日家にいる時ね。夕方、あー、そうだ、と思ってチャンネルを合わせる。歌丸さんは、司会は2016年に引退したが、番組開始前の「もう笑点」でメンバーとのミニコントには出演していた。

笑点」で懐かしいのは、歌丸さんと三遊亭小円遊さん(1980年没)との丁々発止のやりとりだった。子供心にも覚えている。悪口の応酬、お互いに落語家だから、あー言えば、こう言う、やられても黙っていない、倍返しの一言に「やられた」という悔しい顔を見せる。そんなやりとりが面白かった。

歌丸さん、小円遊さんともに落語芸術協会の修業仲間で、ホントはかなり仲良しだったらしい。いや、仲良しかどうかはわからない。小円遊さんは大酒飲みで、歌丸さんは下戸、お酒が飲めなかった。そんな二人が当時(昭和50年頃)、日本酒のコマーシャルに出演していた。国際俳優の山村聰さんをはさんで、三人でうまそうに酒を酌み交わす。歌丸さんは下戸なのに、酒を飲む形が綺麗だったのを覚えている。

歌丸さんと小円遊さんのやりとりは、のちに歌丸さんと三遊亭円楽さん(当代)に受け継がれた。

 

人情噺の名人と言われたが

 

国立演芸場で毎年、夏に「真景累ヶ淵」「怪談牡丹灯篭」「江島屋騒動」など、明治時代の名人、三遊亭圓朝が作った人情噺、怪談噺の連続公演も行っていた。「真景累ヶ淵」は5枚組のCDになっている。

真景累ヶ淵」は長い噺で、江戸から明治の頃は寄席のトリは連続ものの人情噺を毎日口演した。お客さんは続きが聞きたくて毎日寄席に通って来る。「真景累ヶ淵」や「怪談牡丹灯篭」も十五日間掛けて(明治の頃の寄席は十五日間公演だった)口演したが、「真景累ヶ淵」は圓朝の人気でどんどん長くなっていった。現在売られている岩波文庫で300ページある。

「豊志賀」という場面が出色で、「豊志賀」のみを演じる落語家は多くいるが、他の場面はあまり演じられていない。人情噺を得意とした昭和の名人、六代目三遊亭圓生や八代目林家正蔵は発端の「宗悦殺し」から連続で口演もしていたが、途中の「聖天山」という場面までしか演じていない。ちなみに「聖天山」は岩波文庫で163ページである。だいたい半分。その先が何故演じられていなかったか。岩波文庫で全部読んでわかった。その先は怪談でなく、仇討ち話になっていて、毎回波乱万丈ではあるが、あまり面白くない。だが、謎の比丘尼が実は主人公の新吉の母親だとわかるラストの展開が面白い。歌丸さんは後半からラストまでを一席にまとめて「お熊の懺悔」として口演していた。かつての名人たちも口演していなかった物語の完結を見事に語った。

話芸ももちろんであるが、「人情噺の名人」と呼ばれたのは、そうした作業で噺を復活させた功績も大きいと思う。

 

新作落語の先駆者だった

 

ツイッターフェイスブックで多くの人が歌丸さんを悼んでいる。

心温かいコメントが多い中、「最後の人情噺の名人」だとか、言っているコメントを読むと、がっかりする。歌丸さんはスゴイ落語家だが、「最後の名人」ではない。メディアに出ている人だけが落語家ではない。

古今亭志ん朝さんや五代目柳家小さんさんが亡くなった時に「落語の終焉」などと言った演芸評論家がいたが、確かにひとつの時代の終焉なのかもしれないし、名人の死で落語そのものが変わってゆくというのもわからなくはないが、決して「終焉」ではないのだ。

人情噺に取り組んだ歌丸さんの落語魂は、お弟子さんはじめ多くの後輩たちに受け継がれてゆくはずである。

それは何も人情噺だけではない。

人情噺と「笑点」ばかりがメディアでは取り上げられているが、実は歌丸さんは、晩年は古典落語で活躍していたが、若手の頃は新作落語でも活躍していたのだ。

歌丸さんの最初の師匠は五代目古今亭今輔さん。おばあさん落語の新作落語で売った人だ。そして、事情があり移った二度目の師匠が、今輔門下の兄弟子で、当時、新作落語のプリンスと呼ばれていた桂米丸さんだ。ちなみに米丸さんは現在93歳、現役最高齢の落語家として活躍している。

今輔さんは新作落語のほかに、「江島屋騒動」など圓朝ネタも手掛けていたので、歌丸さんが後年、圓朝ネタに挑んだのも亡き師匠の志を継いだところもあるのかもしれない。

今輔さん、米丸さんのもとで修業した歌丸さんは、最初は新作落語を高座に掛けることが多かった。実際に筆者も、子供の頃、テレビやラジオで歌丸さんの新作落語を聞いたことがある。

「きゃいのう」「釣りの酒」(作・有崎勉)、「姓名判断」(作・古城一兵)、「旅行日記」(作・初代林家正楽)など。「きゃいのう」なんて面白かった。歌舞伎の脇役専門の役者の噺で、腰元役でもらった科白が「きゃいのう」だけ。なんだよ、その「きゃいのう」っていうのは。腰元三人が出て来て割り科白になっていて。「むさ苦しい」「とっとと外へ、ゆ」「きゃいのう」、なんでそんなところで科白を切るんだ。リアリティなんてない。落語だから。面白くしているんだけれど、それを話芸でさらに面白く聞かせるのが落語。この「きゃいのう」役者の鬘の中に煙草の火玉が飛んで入って、舞台で腰元の頭から煙が、という噺だ。

歌丸さんは芝居好きだったし、釣りも趣味だった。「釣りの酒」なんていう噺も、自分の趣味を語るから面白かった。

五代目柳家つばめさんの著書「落語の世界」(河出文庫)で、歌丸さんが新作に取り組んでいる姿が書かれている。台本はあっても、古典落語のように師匠や先輩から教わるわけではない新作落語は、演じ方を自分で考え、お客さんとのやりとりで作り上げてゆく。「落語の世界」の中で歌丸さんは「辛くても、やらなきゃいけないんだ」と新作落語をやり続ける使命感を語っている。

歌丸さんはある時から古典に転じた。それは「笑点」のイメージもあったし、新作をやりながらも圓朝ネタを演じた今輔さんの志を継ぐ意味でもあった。

寄席では「紙入れ」「粗忽長屋」「雑俳」なんていうネタでおおいに笑わせた。そして、「鍋草履」「おすわどん」「城木屋」「小烏丸」など他の人のやらない古典落語を復活口演もした。復活口演が出来たのも、先輩に教わるだけの古典落語でなく、新作落語を作り上げてゆく作業を培っていたからできたことだろう。

六十年を超える落語家生活の紆余曲折が、歌丸さんの高座に溢れていた。それが笑いのうちに綴られる。「笑点」の歌丸さんであり、人情噺の名人であり、寄席の爆笑落語家であり、そして、かつては新作落語家でもあった歌丸さん、「落語しかない」と語っている姿が追悼番組で流れたが、いろんな落語家の顔を持っていた。

 

 

f:id:tanukinokinnantoka60:20180703101156j:plain