カレーの話

カレーはいまや日本料理だ!

 

最近、街のあちこちにインドカレーの店が増えた。

インド人、ネパール人、バングラディシュ人の区別は見た目ではわからないが、たいていその系統の民族の人がやっている店だ。

日本人向けに辛くはないが、辛いのを希望すると、いくらでも辛く作ってくれる。何より、カレーをつけるナンが魅力だ。かなりでかい。あんなにでかいナンに、小さな皿のカレーで足りるのかと思うと、案外む、ちょうどよかったりもする。

店によっては、「ナンのお替りできます」という店もあるが、いくらなんでもあんなでかいナンを二枚も三枚も食べられるものではない。

今から三十問前は、こんなにインドカレーの専門店はなかった。たまたま入った赤坂のインド料理屋で人、生ではじめてナンを食べて、でかさとうまさにしばらくはまったこともあった。赤坂に行くとカレーを食べていたが、今は東京中どこでもナンくらいだったら食べられる。

 

日本人がカレーを食べる理由

帝国海軍がカレーを広めた

 

日本にカレーが伝わったのは、明治のはじめ頃と言われている。

伝わったのは、インドカレーでなく、欧風カレーだった。

明治時代になり、日本には軍隊ができた。陸軍はフランスに学び、海軍はイギリスに学んだ。狭い艦船のなかで、てっとり早く食べられるものとして、カレーは重宝だった。

インドはヒンドゥ教徒が多いから。インドでビーフカレーなんて考えられない。イギリス人がインドからヨーロッパへ持ち帰り、工夫された欧風カレーだから、ビーフカレーもありだ。香辛料の効いたインドカレーというよりも、シチューに近いのが欧風カレーで、だから日本人が食してもうまかった。

軍隊には全国から兵士が集まる。兵役を終えて故郷に帰った者たちが、「軍隊で食ったカレーはうまかった」と家族のために作った。もちろん、さらに日本人受けするように味に工夫がされた。関西はそのまま牛肉を使ったが、関東では豚肉が使われるようになった。

明治30年頃には、洋食屋の定番メニューとして、カレーが登場する。この頃はまだカレーは高級料理で、家庭でもご馳走だった。

昭和5年頃には一般家庭向きのカレー粉が発売され家庭料理としてのカレーも生活の中に定着してゆく。いわゆる今日、我々が家で食べる、ご飯の上に黄色いカレーの掛かった、乱切りのじゃがいも、玉葱などの野菜がたっぷり入った日本風カレーである。日本人の好きなカレーはこの頃に登場した。カレーうどん、カレーパンなどが販売されたのも同じ頃だ。日本人のアレンジ力は凄い。

 

日本のインドカレーの元祖が

インドの革命を助けた

 

新宿西口に中村屋というレストランがある。

インドカリーの元祖として有名で、最近では中村屋のカリーのレトルトも販売している。

大正4年のことだ。インド独立運動家のラス・ビハリ・ボースが日本に亡命した。

日英同盟にあったイギリスがボースの追放を求めてきたのに対し、犬養毅頭山満らがこれに反対した。

犬養はのちに首相となるが五・五一事件で暗殺される。頭山満は福岡にある玄洋社と言う政治結社のトップで政界に力を持っていた。

この時、ボースを助けたのが、中村屋創始者相馬愛蔵だった。相馬は頭山満の門下生だった。義にかられた相馬が4ヶ月の間、ボースをかくまった。

その後、ボースには国外退去命令が出るが、ボースは逃げ続ける。大正8年、パリ講話会議でイギリスの追及は終わる。ボースは相馬の娘と結婚し日本に帰化、日本で革命の支援を続ける。

感謝したボースは相馬にインドカリーのレシピを伝授した。ただのインドカリーではない。インドの貴族が食す本格高級カリーである。中村屋の純インドカリーは、高級鶏肉と10種以上の輸入香辛料で作られ、ピクルスなどの薬味もついた。当時、一般の洋食屋で10銭程度だったものが80銭もしたが、それでも日に200食も売れたという。

いまも新宿に掲げられている「中村屋」の看板は頭山満の筆による。

 

https://www.nakamuraya.co.jp/

都内無料デートスポットガイド1

デートに金を掛ければいいってもんじゃない

 

女性の立場から言えば、デートは「この男は私にいくら使うのか」で、男が自分にどれだけの価値を考えているかを計るリトマス試験紙だ、なんていう考え方もわからなくはない。

金は使わないより、使ったほうがいいに決まっている。食事一つとっても、高いものはたいていうまい。食材などの安全を考えたら、ファストフードよりもしかるべきレストランで食べたほうがいいに決まっている。とくにテートで、お洒落な場所で遊ぼうと思ったら、まず金だ。

みんながお金をたくさん使えば、経済が循環し、景気がよくなる。だから、どんどん金は使うべきなのだ。

ところが、実際の話は「世の中、金のない人間のほうが多い」のである。金がないから、使わない。だから景気も悪くなる。

経済政策っていうのは、株価を上げることじゃなくて、皆が均等にバンバン金が使えるようにすることだ。だから、賃上げや減税が一番経済効果に繋がるんだが、そういう基本の基本が経済のプロフェッショナルと言われている人にはわかんないようだ。

金があればね、それはデートくらい、ケチケチせずに使ったほうがいい。私もそう思う。

なければ貯金してもいい。私の知り合いで、三ヶ月金を貯めて、意中の女性を超高級フランス料理に連れて行った男がいた。三ヶ月って婚約指輪かって思うが、普通のサラリーマンの彼にはコース料理3万の高級フレンチに行くには、そのくらい節約の日々を送らなければ金は出来ない。

作戦はよかったんだけどね。別れ際に三ヶ月金を貯めた誠意をもっと伝えればよかったんだよ。目に涙の一つも溜めて、三ヶ月経たないとまた誘えない己のふがいなさを詫びて。土下座でもして「また三ヶ月後に誘いますから、待っていてください」とでも言えば、「次はもっと安いところでいいよ」と女も言ったかもしれない。

彼はそれが出来ず、結果は次のデートまでまた三ヶ月かかり、なかなか誘いの連絡が来ないから、女は別の男とくっついたそうだ。

ようするに、金を気にして先に進めなきゃ、男の女なんていつまで経っても進展しない。

もういい加減によさないか。

金を掛けなきゃデートじゃないから誘えないと思っている男たち、また、相手に負担を掛けたら悪いからと、誘いを避ける女たち。

そんな若者が増えていたら、いつまでたっても少子化問題は解決しない!

最初に戻ります。

いいですか。何もデートは金を掛けりゃいいってもんじゃない!

楽しければいいんだ。

金なんか掛けなくたって、世の中、楽しいことはいくらでもある。

金を掛けなきゃ楽しくないというのは、企業に騙されているんだ。

フレンチで堅苦しく飯を食うよりも、ファミレスや居酒屋で和気藹々やったほうが、お互いの本音が語れるってもんだ。歌舞伎やオペラを見るよりも、寄席や大衆演劇のほうが面白いかもしれない。公園を歩いたって十分楽しい。日本には四季がある。歩いて季節を感じられたら、心も和む。

そうやって考えてみたら、東京っていうのはいい街だ。

無料で遊べるところが案外たくさんある。

無料の博物館や美術館もあるし、展望台もある。歴史を感じさせる旧跡の公園だってたくさんあるんだ。

ホントにあるのか? では、これから何回かに渡り、東京無料デートスポットを紹介しようじゃないか。

間違ってもらっては困るが、私は金を掛けないデートを奨励するわけではない。

掛けないよりは掛けたほうがいいし、ケチで金を使わないのは、経済を停滞させるだけだ。

ただ、無料でも面白い場所はいくらでもあるということと、金がないことでデートに誘ったり誘われたりすることを臆してはいけない、と言いたいだけだ。

では今回のおすすめの3スポットを紹介しよう。

 

思わずドキッ!都会のド真ん中の超怪しい博物館

明治大学「拷問博物館」

 

正しい名称は明治大学博物館。

「拷問博物館」というのは、古今の拷問器具のレプリカが展示してあるから。

明治大学はそもそも明治法律学校として明治時代に設立した。法律が専門だったから、博物館には昔の法律の文書や、さらに言えば江戸時代や海外の刑罰や拷問などの歴史がよくわかる仕組みになっているのだ。

場所は明治大学のキャンパスの地下。都会の真ん中、お茶の水。JRのお茶の水液から坂をおりて右側の、でかいビルがキャンパスで、他の大学と違ってオープンスペースだから一般の人も入ることが出来る。

常設展示は、商品部門、刑事部門、考古学部門にわかれていて、経済や考古学に興味のある人にもおすすめだが、圧巻なのは刑事部門だ。江戸時代の拷問風景の絵や、これで容疑者を叩いた棒や叉などの拷問器具が展示、ムチや蝋燭なんかもある……蝋燭はないか。

そして、西洋の鉄の処女のレプリカ。これが、もう、説明文読むだけで恐怖で顔がひきつる。西洋人のほうが残虐だね。

有料の特別展なんかもある。

夏は涼しいし。

江戸の捕物帳の世界に想いをはせてもいいが、ちょっと責め具を見ながら、いろんな話をしてみるのも、楽しいかもしれない。

 

https://www.meiji.ac.jp/museum/

 

スカイツリーも見える

江戸川区のシンボル、船堀タワーだ

 

都会を一望しようと思ったら。昔は東京タワーに上る、なんていうのもった。六本木ヒルズだと、森美術館の入場料込みで展望台に登ることが出来て、なんと東京タワーを見下ろせる。東京タワーの価値も下がった。

でもやはり、都内の眺望といえば、634メールの東京スカイツリーだろう。でもまた、この展望台の料金が高い。しかも一番の難点は、スカイツリーに登ると、スカイツリーが見えない。これはなんか寂しいね。

スカイツリーが見えて、安く登れる展望台はないのか。一つに都庁の展望台。これがやはり無料。都庁だけでなく、新宿の高層ビルの展望台って無料なところが多いです。

新宿もおすすめだが、もう一つ、東京の東側から東京をながめるスポットとして、静かな人気の展望台が、東西線船堀駅前の船堀タワーだ。

もちろん入場料は無料。スカイツリーも見える。東側からだから、晴れていれば東京一望の先に富士山を望むことができる。

回遊展望台だから、千葉や三浦の梅や山も一望。

展望台のあとは江戸川べりのお散歩も楽しむことができる。

 

http://www.towerhall.jp/

 

都会の中心で歴史に浸る

皇居東御苑

 

江戸城の本丸に入れるって知らない人、案外多くないですか?

入れるんだよ。しかも無料。

結構都会のオアシスです。

地下鉄大手町で降りて、大手門から入ることが出来る。

警備員がいて、カバンの中とかはチェックされるけれど(一応、皇居の敷地だから)。チェックはそれだけ。

本丸までは15分くらい。坂道を登る。途中、忍者が警備していたっていう番所が三つ残っている。

本丸には天守台、昔、天守閣があった石垣がある。天守閣は明暦の大火(1657年)に焼けた。テレビの「暴れん坊将軍」でバックにお城が映るが、徳川吉宗の時代にはもう天守閣はなかった。ちなみに「暴れん坊将軍」のお城は国宝の姫路城。

天守閣再建の噂もあるけれど、石垣だけで往時を想像するっていうのも楽しいと思うけれどね。

広いお庭。昔は御殿が建っていて、大奥の跡や、「忠臣蔵」でおなじみの松乃廊下の跡なんかもある。

歴史に浸りながら、1、2時間くらい、ゆっくりお散歩を楽しむことができる。

 

http://www.kunaicho.go.jp/event/higashigyoen/higashigyoen.html

 

お金なんか掛けなくても、楽しいところはいろいろあるよ。

気楽に彼氏、彼女を誘って出掛けてみてはいかがでしょうか。

セクハラとは何かについて考えてみる

セクハラとは何かについて考えてみる

 

「セクハラ」は悪いに決まっている。

なのに財務省のトップや、人気テレビ番組の元プロデューサーだったテレビ局社長や、他にも官庁や企業の管理職らのセクハラ事件の報道があとを絶たない。

財務大臣は「セクハラ罪はない」と言ったが、そういう名前がないだけで、セクハラは犯罪である。嫌がる女性に性的に行為に及べば、強制猥褻になる。法律の問題でなくても、そもそも「ハラスメント」、「他人のいやがること」をしていいわけがないのだ。

 

「セクハラ」という言葉は30年前の流行語

つまり30年もなくならずに存在しているのは何故か

 

「セクハラ」という言葉が日本に登場したのは、なんと平成元年(1989)だ。その前からも「セクハラ」という言葉は使われていて、酔っ払いに女性が絡まれて訴えた時などに「セクハラ」という言葉が用いられたが、一般に用いられるようになったのが平成元年で、その年の流行語大賞にもなった。

職場で女性の前でエッチな話をしたり、からかったり、場合によってはお尻を触ったりするエロオヤジが大勢、糾弾された。

なるほど、職場の女性は不愉快な思いをしているんだ。反省して、性に関する言動は慎もう、そう思った男性は多くいたと思う。なのに、「セクハラ」という言葉が登場して、30年もなくならないのはいったい何故なのか?

まずは「セクハラ」という言葉の意味を考えてみよう。ただしくは「セクシャル・ハラスメント sexual harassment、意味は「性的いやがらせ」になる。アメリカでは70年代から登場していた。70年代頃ではアメリカでも女性への性差別は行われていて、さまざまな運動が培われていったのだろう。

「いやがらせ」の中でも、「性的」な、いわゆる秘する部分に迫るのであるから、下品で性質が悪い。

30年も問題視されながらも、セクハラがなくならない。

それは男性の意識の問題が大きいのではないかと思う。

最近の若い人はまた考え方が違うようだが、40代よりも上の男性は異性に対してわりと柔軟な考え方を持っている。

たとえば、異性から「好きです」と言われて、その相手が好みのタイブでなかった場合。女性はたいてい、きっぱりと断わる。返事を濁しても、「好きだ」と言われたことを不快に感じる場合が一般的である。なるべく相手を避けるようにして、なんとか不快であるという意思を気づいてもらおうとする大人の対応をとる場合もある。まれに相手に悪いからと「OK」してしまう、優し過ぎる女性もいたりするが、「OK」してから後悔する。

ところが男性は、女性から「好きです」と言われたら、それが好みのタイプでなくても、ちょっと嬉しかったりする。「好きです」と言われたことが、ある意味、男性として認められた自信になったりする。女性が勇気を出して告白してくれたんだから応えなければならない、というフェミニストなんだか「据え膳食わぬは男の恥」という発想なのかはわからないが、男性はまず「NO」とは言わないだろう。もちろん、個人差はある。恋愛に潔癖な男もいれば、奥さんや恋人がいて、泣く泣く諦める場合もある。その場合でも「泣く泣く」である。すべての男性がというわけではないが、一般論として、男性は女性に対して柔軟な態度を取るものである。

最近では女性が社会進出し、強い女性から男性へのセクハラも問題にはなっているが、ある程度年配の男性なら(オヤジはなかなかセクハラの対象にはならない。たいていはイケメンの若者だろうが)、女性上司からセクハラされるのもちょっと浮き浮きするプチマゾヒズムな楽しみもあったりする。

ようするに、男性は案外、性的な行為、言動に寛容さを持っていて、自分がいいんだから、女性もそんなに傷ついてはいないんじゃないの、という思いが少なからずあるものだ。

 

ではもしも、

同性愛の男性からセクハラを受けたら

 

少し発想を変えてみる。

女性から性的対象として見られることが、ある意味自信に繋がるから、寛容に捉えている男性が多いのかもしれないが、もしも同性愛の男性から性的対象と見られたらどうするか。

同性愛者を差別するつもりはさらさらないが、同性愛者は同性愛者のパートナーだけを性的対象と見ているわけではない。一般の男性も性的対象になる。

ちょっとオカマっぽい会社の同僚にキン*マを握られるくらいなら、ただのおふざけでもいいが、同性愛者の男性から真摯に告白されたらどうするか。女性が相手のようには必ずしもゆくまい。

ましてや、同性愛者の男性から、セクハラを受けたらどうする? 逃げる、殴る、罵倒する、訴える……、なんらかの手段を講じるだろう。

ようはそういうことで、一般の女性は男性から性的対象と見られることに、恐怖や羞恥や嫌悪を感じている場合があるということだ。そういう気持ちを少なくとも男性は理解する努力はしたほうがいい時代になっているということだ。

 

セクハラは悪いに決まっているのだが

セクハラを一括りにしていいのか

 

とは言え、「あれ、今日、彼氏とデート?」「髪切ったよね、カワイイくなったよ」などと女性に声を掛けるのも「セクハラ」と言われると、どうなのか、という思いも、男としてはなくはない気持ちもある。

これを言ったらセクハラ? なんて言葉を選んでいたら、会話にはならなくなりそうだ。ただでさえ人間関係難しいのに、そんなことまで気遣って、世のおじさんたちはお腹が痛くなる。

これはある意味、暴論かもしれないがあえて言う。

セクハラをなんでもかんでも一括りにしていいのか。

もちろん、セクハラは悪いのである。「あれ、今日、彼氏とデート?」「髪切ったよね、カワイイくなったよ」でも不快に思う女性はいるのである。

わかった上であえて言うが。

一番悪いのは、たとえば、職場の上司、人事権を持っているような役職の者が、昇進を餌にしたり、解雇や降格で脅したりして性的関係を迫る行為である。これは絶対に許せない。

そこへいくと、職場でささやかなエロ話に興じるオヤジの存在くらい、寛容な気持ちで許してあげてもよくはないか。

もちろん、酷いものに対しては、叱責なり、なんらかの懲罰を加えても仕方がないが、許せる範囲というのはあるのではないか。言葉一つ発するのに、オヤジがびくびくしていては、仕事にも支障をきたすだろう。

いや、そういうエロオヤジを許すことが、セクハラの温床になる。間違った認識は正すべき。無駄口をきかずに仕事しろ! そう言われたら、やはり何も言えなくなる時代なのか。とほほほ。

伊能忠敬に学ぶ大人の再出発

中高年の再就職、やりたいことをやればいい、のか?

 

定年退職したら、年金で呑気に暮らしたい、なんて思っている中高年の皆さんはそんなにはいないでしょう。

年金だけじゃ老後に不安というのもあるし、今まで一生懸命働いてきたんだから、ここらで趣味を活かしたり、昔、やりたかったけれど出来なかったことに再挑戦してみよう、なんて考えている人も多いと思います。

そんな時によく引き合いに出される歴史上の人物に伊能忠敬がいます。

江戸後期の地理学者で、日本中を歩いて測量して、正確な日本地図を作った人として知られていますが、忠敬が学問を志したのは50歳を過ぎてから。まさに、中年からの再スタートで偉業をなしとげた、立志伝中の人物ですね。

よし、俺も伊能忠敬のように、頑張って偉業をなしとげようと思っている方、ちょっと待ってください。ここでもう一度、伊能忠敬を知ることで、いま、自分が何をすべきかを見つめ直してみましょう。

 

伊能忠敬とは何者か

 

伊能忠敬 1745~1818。父親は浪人で、神保貞恒、親戚の家に居候をしながら私塾を開いていた。父は息子のために今でいう英才教育を施す。この時代、もはや武術で身を立てることなど難しい時代。浪人が職を得るには、学問、というよりも技術が必要だった。技術があれば、幕府や藩の下級官吏(今でいうノンキャリアの現場官僚)へ登用されるチャンスがあった。忠敬は算盤と測量術を学んだ。

忠敬17歳、たいへんな秀才で近隣に知られた。そして、東金の堤防工事の測量を任され、その能力が認められた。そんな忠敬が、佐原の名主、伊能家の婿養子にならないかとの話が持ち掛けられる。忠敬は幼い頃、佐原に住んでいたことがあり、伊能の娘のミチとは筒井筒の間柄。だが、忠敬は測量の道へ。ミチは名主の家を継ぐために婿をとった。ところが婿が病気で死んでしまった。ミチの両親はすでに亡く、当時の伊能家の当主はミチの祖父で、一日も早くミチに新しい婿を迎えねばならなかった。

浪人とは言え忠敬の神保家は武士、伊能家は百姓の身分である。だが忠敬は学問を捨てて伊能家の婿となった。ミチの祖父からは「名主は片手間で出来る仕事ではないので、婿に来るなら学問を捨てる覚悟で来い」とも言われていた。

三十三年間、忠敬は伊能家の婿として、名主の仕事を行った。また、伊能家の商売である酒、醤油の醸造、販売でも成果を出した。実際に祖父の代までは商売が下手で傾きかけていた稼業を忠敬が算盤の力と情報収集力を活かして立ち直らせたのである。また、佐原の代官に命じられ、利根川の治水工事にも農民たちを指揮して働いた。

忠敬は50歳を迎えた。数年前に妻のミチは亡くなり、息子たちも成人した。忠敬は名主を息子に譲り、江戸に出て深川に居を構えた。そして、幕府天文方、高橋至時に弟子入りし、ふたたび学問の道に進んだ。忠敬が学んだのは天文学で、星の動きを学ぶことが測量技術に活かせる。そうして、高橋のもとで学んだ忠敬は、正しい測量で日本地図を作るという志を立て、55歳から測量を開始し、日本地図作成の偉業をなしとげた。その地図の正確さは、幕末に日本に来た外国人たちも目を見張った。そして、日本には市井の学者でこれだけの偉業を行った人物がいたことに舌を巻いたという。

 

忠敬の偉業をなしとげたのは

前職で築いた莫大な財産があったから

 

ここまで読んで、忠敬スゴイ。よし俺も、志し半ばであきらめたことに再チャレンジと思った人も多いでしょう。

だが、ことはそんなに簡単ではなかったのです。志や勉学だけで偉業はなしとげられない。

地図製作は幕府の命令で行われたものではなかった。高橋、伊能の提案に幕府がOKを出したというもので、二回に渡る測量が認められて、三回目からの地図製作には幕府からの予算がもらえたものの、一回目(蝦夷)、二回目(東海岸)の測量は、多少の補助が幕府から出たものの、忠敬がほぼ自費で行ったのだ。ちなみに第一回の蝦夷測量で幕府からの補助金は22両、忠敬の自腹は140両、今のお金で1200万円ほどの出費である。これがなしえたのは名主時代に酒・醤油の商売で稼いだ資金があったからだ。

つまり偉業は只では出来ない。資金がいる、ということである。

ちなみに忠敬は深川に居を構えたのち、吉原の花魁を身請けして身の回りの世話をさせている。かなりの金があった。

 

がっかりしている場合ではない

トライする気持ちが大事

 

ようは金がなければ偉業はなしえないのである。

いや、金ならある。退職金がたんまりと、老後のために、とりあえず銀行に預けてあるが、投資信託かなんかにして利息を生活のたしにしようと思っていた金だ。これを資金に、やりたかった商売をはじめよう。蕎麦打ち、お菓子作り、小さな喫茶店……。おそらく、世の経営コンサルタントとかいう広告を出している業者は、あなたの虎の子の退職金を狙っているでしょう。甘い言葉に乗ってはだめです。

じゃ、しょうがない。やはり、年金と利息を中心に、足りないところは動けるうちはパートタイムでもして、なんとか暮らして行かれればいいんじゃないか。

それも一つ。

だけど諦めちゃいけない。偉業は無理でも、やれることをやろうじゃないか。

忠敬は若き日に諦めた学問の道に進んだ。だが、机上の学問を諦めただけで、名主時代にも培った測量の技術で利根川の治水工事などを行っていた。ブランクのあった学問を埋めるため高橋至時について学んだ5年があったのだ。

20年、30年培ったキャリアは大事だ。定年退職しても、それまで働いて得た知識や技術、人脈は活かすべき。何をやるかは自由だが、どうやるのかに、きちんとした計画を立てる。今まで培った知識や技術、人脈、そして、退職金も全部投資せず、少しは資金として用いよう。我武者羅に突っ走らないことだ。

伊能忠敬の偉業は、彼の才能と根気、日本中を歩いて測量した、それは根気としか言いようがないし、年齢に負けない体力もあったろう。そして、資金。それだけでなく、それまでの知識や技術を活かしたこと。そして、高橋至時など、新たな人脈もあった。そういう、さまざまなものに支えられてのことだ。まず、目的達成のために、何が必要か、考えることからはじめてはどうか。実はこの考えることが楽しい。夢を持つことは大事、それを夢でなく実現させればなお楽しい。実現出来る方法を、自分らしく考えてみることが大事なのである。