伊能忠敬に学ぶ大人の再出発

中高年の再就職、やりたいことをやればいい、のか?

 

定年退職したら、年金で呑気に暮らしたい、なんて思っている中高年の皆さんはそんなにはいないでしょう。

年金だけじゃ老後に不安というのもあるし、今まで一生懸命働いてきたんだから、ここらで趣味を活かしたり、昔、やりたかったけれど出来なかったことに再挑戦してみよう、なんて考えている人も多いと思います。

そんな時によく引き合いに出される歴史上の人物に伊能忠敬がいます。

江戸後期の地理学者で、日本中を歩いて測量して、正確な日本地図を作った人として知られていますが、忠敬が学問を志したのは50歳を過ぎてから。まさに、中年からの再スタートで偉業をなしとげた、立志伝中の人物ですね。

よし、俺も伊能忠敬のように、頑張って偉業をなしとげようと思っている方、ちょっと待ってください。ここでもう一度、伊能忠敬を知ることで、いま、自分が何をすべきかを見つめ直してみましょう。

 

伊能忠敬とは何者か

 

伊能忠敬 1745~1818。父親は浪人で、神保貞恒、親戚の家に居候をしながら私塾を開いていた。父は息子のために今でいう英才教育を施す。この時代、もはや武術で身を立てることなど難しい時代。浪人が職を得るには、学問、というよりも技術が必要だった。技術があれば、幕府や藩の下級官吏(今でいうノンキャリアの現場官僚)へ登用されるチャンスがあった。忠敬は算盤と測量術を学んだ。

忠敬17歳、たいへんな秀才で近隣に知られた。そして、東金の堤防工事の測量を任され、その能力が認められた。そんな忠敬が、佐原の名主、伊能家の婿養子にならないかとの話が持ち掛けられる。忠敬は幼い頃、佐原に住んでいたことがあり、伊能の娘のミチとは筒井筒の間柄。だが、忠敬は測量の道へ。ミチは名主の家を継ぐために婿をとった。ところが婿が病気で死んでしまった。ミチの両親はすでに亡く、当時の伊能家の当主はミチの祖父で、一日も早くミチに新しい婿を迎えねばならなかった。

浪人とは言え忠敬の神保家は武士、伊能家は百姓の身分である。だが忠敬は学問を捨てて伊能家の婿となった。ミチの祖父からは「名主は片手間で出来る仕事ではないので、婿に来るなら学問を捨てる覚悟で来い」とも言われていた。

三十三年間、忠敬は伊能家の婿として、名主の仕事を行った。また、伊能家の商売である酒、醤油の醸造、販売でも成果を出した。実際に祖父の代までは商売が下手で傾きかけていた稼業を忠敬が算盤の力と情報収集力を活かして立ち直らせたのである。また、佐原の代官に命じられ、利根川の治水工事にも農民たちを指揮して働いた。

忠敬は50歳を迎えた。数年前に妻のミチは亡くなり、息子たちも成人した。忠敬は名主を息子に譲り、江戸に出て深川に居を構えた。そして、幕府天文方、高橋至時に弟子入りし、ふたたび学問の道に進んだ。忠敬が学んだのは天文学で、星の動きを学ぶことが測量技術に活かせる。そうして、高橋のもとで学んだ忠敬は、正しい測量で日本地図を作るという志を立て、55歳から測量を開始し、日本地図作成の偉業をなしとげた。その地図の正確さは、幕末に日本に来た外国人たちも目を見張った。そして、日本には市井の学者でこれだけの偉業を行った人物がいたことに舌を巻いたという。

 

忠敬の偉業をなしとげたのは

前職で築いた莫大な財産があったから

 

ここまで読んで、忠敬スゴイ。よし俺も、志し半ばであきらめたことに再チャレンジと思った人も多いでしょう。

だが、ことはそんなに簡単ではなかったのです。志や勉学だけで偉業はなしとげられない。

地図製作は幕府の命令で行われたものではなかった。高橋、伊能の提案に幕府がOKを出したというもので、二回に渡る測量が認められて、三回目からの地図製作には幕府からの予算がもらえたものの、一回目(蝦夷)、二回目(東海岸)の測量は、多少の補助が幕府から出たものの、忠敬がほぼ自費で行ったのだ。ちなみに第一回の蝦夷測量で幕府からの補助金は22両、忠敬の自腹は140両、今のお金で1200万円ほどの出費である。これがなしえたのは名主時代に酒・醤油の商売で稼いだ資金があったからだ。

つまり偉業は只では出来ない。資金がいる、ということである。

ちなみに忠敬は深川に居を構えたのち、吉原の花魁を身請けして身の回りの世話をさせている。かなりの金があった。

 

がっかりしている場合ではない

トライする気持ちが大事

 

ようは金がなければ偉業はなしえないのである。

いや、金ならある。退職金がたんまりと、老後のために、とりあえず銀行に預けてあるが、投資信託かなんかにして利息を生活のたしにしようと思っていた金だ。これを資金に、やりたかった商売をはじめよう。蕎麦打ち、お菓子作り、小さな喫茶店……。おそらく、世の経営コンサルタントとかいう広告を出している業者は、あなたの虎の子の退職金を狙っているでしょう。甘い言葉に乗ってはだめです。

じゃ、しょうがない。やはり、年金と利息を中心に、足りないところは動けるうちはパートタイムでもして、なんとか暮らして行かれればいいんじゃないか。

それも一つ。

だけど諦めちゃいけない。偉業は無理でも、やれることをやろうじゃないか。

忠敬は若き日に諦めた学問の道に進んだ。だが、机上の学問を諦めただけで、名主時代にも培った測量の技術で利根川の治水工事などを行っていた。ブランクのあった学問を埋めるため高橋至時について学んだ5年があったのだ。

20年、30年培ったキャリアは大事だ。定年退職しても、それまで働いて得た知識や技術、人脈は活かすべき。何をやるかは自由だが、どうやるのかに、きちんとした計画を立てる。今まで培った知識や技術、人脈、そして、退職金も全部投資せず、少しは資金として用いよう。我武者羅に突っ走らないことだ。

伊能忠敬の偉業は、彼の才能と根気、日本中を歩いて測量した、それは根気としか言いようがないし、年齢に負けない体力もあったろう。そして、資金。それだけでなく、それまでの知識や技術を活かしたこと。そして、高橋至時など、新たな人脈もあった。そういう、さまざまなものに支えられてのことだ。まず、目的達成のために、何が必要か、考えることからはじめてはどうか。実はこの考えることが楽しい。夢を持つことは大事、それを夢でなく実現させればなお楽しい。実現出来る方法を、自分らしく考えてみることが大事なのである。