何年か前の8月15日に靖国神社に行った話
8月15日は終戦記念日である。
1945年8月15日に日本はポツダム宣言の受諾を発表した。1941年12月8日、日本軍がハワイ、オアフ島真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を攻撃、米英仏蘭などの連合国と戦争をはじめた、いわゆる太平洋戦争、日本側から言うと大東亜戦争の終結、早い話が戦争に負けたのである。
靖国神社に行ってみた
私の生まれが、すでに戦後15年が経っている。
終戦の時に20歳の人は94歳になる。ほとんどの人が戦争を経験していない。
だから、8月15日と言われても、ピンとこないかもしれない。事実、小学校の頃は何も意識していなかった。夏休みだし。ただ遊びに行きたいだけで、8月15日を意識したことなどなかった。
はじめて靖国神社に行ったのは、いつのことだったろう。
もう大人になってからだ。
なんで行ったんだ?
よく覚えていない。
もちろん、英霊の御霊に手をあわせに行ったわけではない。たぶん、御霊祭りに靖国神社の境内に見世物小屋が出るので見に行ったんだと思う。
一時、失われゆく芸能に興味があり、夏の靖国神社、冬の花園神社、あと、秋の川越祭りなどに見世物小屋が出ていると聞いて、見に行った記憶がある。
最初はそんな感じであったが、その後も何度か、靖国神社には行っている。ある時は、花見だったり、だが、ここに来るのはいつの間にか、もうひとつの目的が出来た。
ある8月15日、靖国神社を訪ねた時のことを記そう。
地下鉄の九段下で降りる。
とことこと坂を上がる。
今年ほどではないのかもしれないが、やはり炎天の8月15日は暑かった。
坂を登り鳥居をくぐり、しばらく行くと、参道に銅像が建っている。日本陸軍産みの親と言われる大村益次郎の銅像だ。
大村益次郎(1824~64)は、長州藩士。明治維新で活躍した人物だ。もともと村の医者だった。大坂の適塾で蘭学を学んだが、時代の流れから医学よりも兵書を多く学んだ。ようするに、西洋の軍隊の用兵であり、大砲の撃ち方であり、軍事に精通した。どのくらい益次郎が凄かったか。その頃の大砲は、砲弾がどこに飛んでゆくか、あんまりよくわからなかった。でかい音で敵を威圧し、そこに鉄の塊の弾丸が飛んでくるので、敵は驚いて逃げる。そういう類の武器だったが、戊辰戦争で上野の山を攻撃した時、益次郎が指揮する官軍の大砲は、上野の山に彰義隊が敷いた陣地に確実に命中させた。陣地にドカンドカン弾丸が命中するから、多くの彰義隊の兵士が砲弾に倒れ、残りの者も逃げ出し、益次郎の名は官軍にその人ありと轟いた。
いや、実はその前から、大村益次郎は凄い人物だというエピソードがある。益次郎は元の名前を村田蔵六といい、村医者のあと長州藩士となり、江戸藩邸の金庫番役を勤めていた。そこにやって来たのは、井上聞多(のちの大蔵大臣、井上馨)、伊藤俊輔(のちの初代総理大臣、伊藤博文)、遠藤謹助(のちの造幣局局長)、山尾庸三(のちの法制局長官)、野村弥吉(のちに鉄道の父と言われる)の五人で、彼らは英国に密航する資金を借りに来た。蔵六は何も言わずに彼らの前に五千両の金を出した。咎められれば自分が切腹すれば済むだけ、それよりも、幕末のその時代、五人の若者が英国で学ぶことが国益になる!という考えからであった。
明治政府では、日本陸軍創設に尽力したが、明治2年に暗殺された。
軍歌熱唱
拝殿には凄い数の人が並んでいた。英霊に参拝する人たちだ。
お父さんとかお祖父さん、叔父さんとか、身内に英霊がいる人もいるだろうし、単に日本を守ってくれた人たちに感謝に来ている人たちもいるんだろう。
暑くても並んで参拝することに意義があると思う人たちである。志は立派だ。
私は英霊に手をあわせることには否定はしない。戦犯の合祀問題とか、中国や韓国の近隣国の批判もあるだろうが、話は別だと思う。
戦犯合祀問題は考え方のわかれるところで、決して気持ちのいいものではないかもしれないが、合祀されようがされまいが、気持ちの問題として、割り切れればいいじゃないか。英霊に手をあわせたいと思う人の気持ちを大切にしたい。割り切れない人は参拝しなければいいだけだ。
外交問題は、首相や議員が、マスコミの取材が殺到している中、相手の感情を煽るかのように参拝するからいけないのであって、本当に英霊に手をあわせる気があるのなら、マスコミなんかがいない朝早くに来て、そっと手を合わせて帰ればいい。
マスコミの前で参拝する、これは参拝でなくパフォーマンスだと私は思う。
首相でも議員でもない人たちは、それぞれの気持ちで参拝すればいいだけだと思う。
拝殿の横には舞台がある。ここではいろんな奉納演芸が行われている。
浪曲とかをやる時もあるそうだが、この時は、男女の混声合唱団が、なんと軍歌を熱唱していた。1時間近く歌いまくっていたね。
「月月火水木金金」「ラバウル海軍航空隊」……、結構メジャー音階のウキウキする曲が多く、軍歌も面白く聞くことが出来る。
最初の勝っているうちがメジャー音階で、負けてきて、空襲とかがはじまるとマイナー音階になったなどと言われているが、ホントだろうか。
敗戦の検証がなされた戦史博物館
いわゆる日本にはあまりない、いや、ここだけかもしれない、戦史博物館である。
入り口には零式戦闘機や、大砲のレプリカが飾ってあり、軍事好きにはたまらない導入部であろう。
入場料は一般1000円、大学生500円、中高生300円、小学生以下無料(遊就館ホームーページ)とある。普通の博物館もそんな値段か。高いか安いか、それは個人の興味にもよるだろう。
江戸時代の武器、刀などの工芸品から展示してある。人に聞いた話だと、浜野矩随の作った腰元彫りの刀の鍔もあるそうだが、特別展の時にしか見られないそうだ。
あとは戊辰戦争から日清、日露戦争、第一次世界大戦と、時系列に日本軍の戦歴や、当時の武器などが展示されている。やがて、展示は満州事変、日中戦争(ここでは支那事変)、そして、太平洋戦争(大東亜戦争)の経緯、関連の資料が展示してある。支那事変だの大東亜戦争などの表記に問題がないとは言わないが、戦争の経緯、敗戦の原因などは客観的に記されている。戦争をもう一度検証するには、もちろん、資料から自分で考えることが大事であるが、この資料から学ぶものは大きいと思う。
最後にすべてのここに祀られている英霊の名前が記されている展示室がある。私はここで会ったことのない母の兄の名前と写真を見ることが出来た。
英霊に手をあわせることも重要なのかもしれないが、それだけでなく、戦争を考える意味で、この遊就館を訪ねてみることをおすすめする。
軍事おたくの人はかなり楽しめるし、歴史好きの人も面白いと思う。負けた理由がわかれば、次にやる時はどうすれば勝てるのかもわかるだろう。いや、何よりもう一度、なんであの戦争が起こったのか、どういう戦い方をして、負けたのか、その検証は一人一人がするぺきだ。
パフォーマンス参拝をする首相や議員は、遊就館に立ち寄っているのだろうか。彼らに一番に見て欲しいと思わぬでもない。