怪談の話 何故幽霊に足がないのか?

以前にも幽霊の話を書いた。

夏だから、その続きでもいいだろう。

よく幽霊には足がない、と言われているが、ホントだろうか。

いや、幽霊なんていないんだから。そんな話が不毛だ。

と言っては、もともこもない。幽霊がいる、いないはともかく、一般的に幽霊に足がない、と言われている。足がないと言われているのは何故だろうか。

 

江戸時代の中頃までは幽霊にも足があった

 

実は江戸時代の中頃までは幽霊にも足があった。

昔の浮世絵の幽霊画には足がちゃんと描かれている。

移動はふわふわと飛ぶのだが、立つ時は二本の足でしっかり立っている。

ではいつ頃から、どうして幽霊に足はなくなったのであろうか。

結論から先に言おう。

円山応挙(1733~95)が足のない幽霊の絵を描いてから、「幽霊は足がない」ことになった。

ようするに下半身をボカして描いた。そうすることで、幽霊のはかなさを描いたんだ。それで幽霊がより幽霊らしく見えた。

そして、歌舞伎で、初代尾上松緑(1744~1815)が幽霊役を演じた時、長い裾の着物で足を隠して摺り足で歩いたところ、客からは足のない幽霊に見えた。これが幽霊役の定番となり、浮世絵と歌舞伎で「足のない幽霊」のイメージが定着した。

幽霊なんて見た人はいないのに、幽霊のイメージが歌舞伎や絵画によって一般化したのだ。

 

足のない幽霊が下駄を履いてやって来る

 

幕末から明治に、怪談噺を多く創作したのが三遊亭圓朝(1839~1900)。「真景累ヶ淵」「牡丹灯籠」「江島屋騒動」などの作品がある。

中でも有名なのが「牡丹灯籠」だが、「牡丹灯籠」は「足のないはずの幽霊に下駄を履かせた」と言われ、当時おおいに話題になった。

根津清水谷(現在の台東区、千代田線千駄木駅近く)に住む浪人、萩原新三郎はかなりのイケメンだった。一度だけの逢瀬だが、旗本、飯島平左衛門の娘の露は新三郎に恋焦がれてしまう。新三郎も露を憎からず思ったが、二人は身分違いなため、新三郎は諦めて露に逢いに行くことはなかった。ために、露は恋煩いで亡くなる。そして、谷中三崎(現在の台東区で、千代田線千駄木から坂を登って行ったところ)の寺に葬られるが、これが幽霊になって恋しい新三郎の家を訪ねる。

この時、露は下駄を履いていて、カランコロン、カランコロンと、下駄の音を立てて三崎の坂をやって来るのだ。

死んだというのは嘘だと言う露の幽霊と新三郎は逢瀬を重ね、やがて新三郎はとり殺されてしまう。

「牡丹灯籠」は最初に演じられたのは幕末だが、明治時代に改作を繰り返された。だから、結果、ただの怪談ではない。文明開化の時代にあわせて、新三郎を殺したのは幽霊ではなく、長屋に住む悪党の伴蔵であったというミステリーになっている。それはラストの謎解きでわかる話だが、前半は新三郎と露の主観で話がすすむので、新三郎の露への愛から恐怖への心の変遷と、露の一途さが描かれ、「愛」をテーマにした怪談噺になっている。

さて、イケメンの新三郎と相思相愛となるのであるから、露もそれなりの美女でなくてはいけない。だいたい幽霊は美女に決まっている。

 

幽霊は皆、美女

 

幽霊はたいてい美女だ。

これも円山応挙の責任が大きい。応挙の描く幽霊はたいていが美女なのである。

幽霊が美女でなくてはいけないという規則は別にないが、たいていは美女だ。「四谷怪談」のお岩さんは死ぬ直前に劇薬を飲まされて顔が恐ろしい形相になるが、もともとは美女だ。美女の形相が崩れるから美しいものが醜く変わることで生まれる恐ろしさがある。

雨月物語」の男をとり殺すような幽霊も美女だ。もっとも醜女にとり殺される男はあまりいまい。

幽霊になってまで恨みを晴らす(「牡丹灯籠」は愛を貫く)のだから、これはかなり気が強い女でもある。ターゲットを追い詰めて、いたぶり殺す。これはドSだな。

だいたい怪談が好きな人は怖がりたい人で、恐怖が快感となるマゾヒズム的な楽しさもある。ただ怖いだけよりも、美女が怖いほうがいい。怪談が受けるのは、こうしたドS幽霊の魅力もあるのかもしれない。

してみると、美女の幽霊というのは、幽霊が美女であったほうが興奮するという男性の怪談好きのニーズであり、それに応えて怪談の作者や幽霊画の絵師が創造したに過ぎないのかもしれない。

一方、円山応挙の描く、うりざね顔の美女はドSっぽくはない。恐ろしさと同時に、はかなさがあるのが幽霊なのだろう。

はかなさに美しさを見出すというのがあるのだろう。

それもまた怪談好きの男たちのニーズであったのだろう。

谷中・全生庵(三崎にある)には三遊亭圓朝墓所があり、圓朝が集めた幽霊画が展示されている。中で「牡丹灯籠」の画もあるが、露の顔は骸骨に描かれている。新三郎には美女に見えるお露が絵師の目からは恐ろしい骸骨に見えるということなのだろうか。

「髪は文金の高髷に結い、着物は秋草模様の振袖に縮緬長襦袢に繻子の帯をしどけなく締め、上方風の塗柄の団扇を持って、ぱたりぱたりと通る…」(三遊亭圓朝「怪談牡丹灯籠」岩波文庫

幽霊だからって白の帷子じゃない。露はちゃんと娘らしい着物を着ている。これは新三郎にだけ見えた幻覚なんだろうか。してみると、幽霊に足がある、なしも、見た人の主観ということになる。新三郎は幽霊でない露が訪ねて来たと思った。だから、露には足があったのかもしれない。