「漢」と書いて「おとこ」と読む?

 ちょっと前にワイドショーを騒がせたボクシング協会の会長、その言葉の一つ一つが、かなりアナクロだった。まるで、昭和40年代の任侠映画か、北島さぶちゃんの演歌の世界を彷彿させる。そういうアナクロは嫌いじゃないけれど、やはり、いまの時代では、おかし味しかない。

 なかで「漢(おとこ)山根は……」ってよく言っていたけれど。漢字の「漢」と書いて「おとこ」と読むのを、あれで知った人は多いんじゃないか。「男、山根」じゃいけない。「漢」としたのは何故なんだろうか。また、なんで「漢」と書いて「おとこ」と読むのだろう。

 

「漢」とは「好漢」のこと

 

 世の中には、男と女がいる。中には性別不詳、性別をあえて問わない人もいるが、生物学的には「男と女」だ。生物学的な男を「男」と書く。

「漢」は「好漢」などと呼ばれたりもする。「好」は「よい」の意味で、「いいおとこ」ならイケメンを言うが、造作のよし悪しは問題ではない。了見のいい男をいう。すなわち、「おとこの中のおとこ」、強さと人情、それが「好漢」になる。

 何が「おとこらしい」のか。そのあたりの識別は難しい。

人によって価値観が異なる。強さとは、単に腕力の強さをいうのではあるまい。現代ならば、単に腕力が強いだけでなく、弁舌や、組織統率力、選挙などの集票力とか、いわゆる「力」の強さになるのだろう。強いとどうなるのか。権力を持つ。権力を持つと、いろんなことに無理が通る。そこで超法規な処置で敏速にものごとを進められたりもする。それを自分の欲得だけでやっていたら、人は離れ、すぐに権力を失う。だから、自分を慕ってくる、いわゆる子分たちにはそうした利益のお裾分けをする。それをすなわち人情という。

「義理と人情」、それじゃ、やはり北島さぶせちゃんの世界じゃないか。でも、「義理」と「人情」は対義語である。「義理」とは世間の柵(しがらみ)、「人情」は己の中の「優しさ」を言う。

 わかりやすい例で言えば、残業をするのは「義理」だ。給料もらっているから。残業しないで帰ると「義理知らず」と言われる。で、残業しないで、デートに行くのが「人情」。彼女(彼氏)への優しさ。デートの約束をしている日に上司から残業を命じられる、これが「義理と人情を秤にかけりゃ」という状態になる。で、漢の道は「義理が重たい」。

 一方、優しいおとこ、人情を知るのも、「漢」なのだ。ところが、すべての人に「優しさ」を見せない。自分を慕っている子分たち、自分のために働いてくれる者に対してのみ「優しさ」を見せるんだ。

 敵は徹底的に叩く。敵を叩いて強さを見せる。敵とは何か、自分にはむかって来るヤカラだ。こいつらを叩くことで、強さを見せ、逆らったらどうなるかを子分たちに示す。いわゆる恐怖政治というヤツだ。

 そう考えると碌なもんじゃないね。

 ホントは「弱きを助け、強きをくじく」のが、真の「漢」だ。しかし、「漢」の意味はあきらかに違ってきた。「自分を慕う者を助け、逆らう者をくじく」。

郷土愛も強いから、そら、「○○判定」なんていうのは、郷土愛と権力のアピールには何よりだ。

 

語源は中国

 

 さて、「漢」の語源だが、簡単だ。中国人のことを漢民族というでしょう。

 つまり、語源は中国。って漢字なんだから、考えてみれば、全部、中国だ。

 中国っていうのは広い。だから単一民族ではない。いろんな人種がいる中、漢民族が長い間、歴史を動かして来た。

 つまり、中国の政治の中枢に漢民族がいたことが多い。勝てば官軍ね。つまり、正義が漢民族にあった。

 一般的な男性の中で、優れているのが漢民族のおとこ、漢民族のおとこは「おとこの中のおとこ」で、強くて、義理人情を知る。だから、性別的な男の中でも、とりわけ「漢」は偉い、立派な人、だから、尊敬せよ。みたいなところから生まれたんだ。

 

中国の王様は神から選ばれた

 

 日本は天皇家万世一系の家系で、神武天皇から今日の陛下まで143代の天皇が続いている。約2300年くらいになるのか。歴史的な間違いはもちろんあるが、そういうことになっている。そのことが今のテーマではない。

 中国は3000年の歴史があるが、一系の王朝ではない。時々、王朝が変わる。元(モンゴル族)や清(満州族)に攻め込まれて征服されてしまうこともあったが、中国内の諸侯(領主)が反乱を起こして王朝を倒すこともあった。

 そもそも王様、皇帝とは神から選ばれた存在である。だから絶対なのである。日本の天皇家がそうで、藤原氏がどれだけ権力を持とうが、武家政権が政治の中枢を担おうが、天皇家だけは続いて来た。

 中国の王朝は何故倒れるのか。元や清などの外敵に倒されるのは仕方がない。反乱で倒れることがある。反乱を起こす諸侯は神の代理である皇帝に弓を引く。それは「悪」なのではないのか? 皇帝を倒した諸侯の一人が次の皇帝になるのでは、力が正義の世の中になってしまう。そんなことは簡単には認められまい。

 つまり、どういうことかと言うと、中国の神は時々、皇帝を見放すのである。皇帝の力が弱まる、傲慢さから悪政を施す時、神は王朝を見放し、台風や地震など天災が起こす。イナゴが大量発生して稲や麦を食い尽くす。そして、大飢饉が起きて、大勢の人が死ぬ。それに対して政治は無力で何も出来ない。神が王朝を見放した、そう思った諸侯が立ち上がり反乱を起こして王朝を倒す。神に見放された王朝を倒すのだから、神に弓引くのではない。つまり、「正義」なんだ。これを易姓革命という。

 最初にこれをやったのは、周の文王・武王の親子である。今から3000年前、黄河にあった殷王朝を倒し、周王朝を建国した。神が殷を見放し、次に周を王朝に指名したのである。

 ちなみに、漢王朝は、紀元前202年に起こった。初代の高祖は劉邦。前の王朝は始皇帝でおなじみの秦。秦は周代に起こった諸侯の一つであったが、紀元前221年に始皇帝が中国を統一した。始皇帝が強大な力をもって中国を統一したものの、始皇帝が亡くなりすぐに求心力が弱まった。多くの諸侯が秦を倒して易姓をめざし、楚の項羽が天下を取るが、劉邦がこれを破り、漢を起こした。

 ちなみに劉邦はもともとは諸侯ではない。田舎の居酒屋の酔っ払いだった。中国では、他にも明の朱元璋が庶民から皇帝になった。

 なんで劉邦はただの酔っ払いから皇帝になれたのか。始皇帝が強大な権力でやりたい放題やって乱れた国を立て直したいという志と、人心掌握術があった。劉邦自身はただの酔っ払いでも、軍師の張良、豪傑の韓信らに加え、軍資金を調達してくれるスポンサーを心酔させて味方にした。

 志があって、人の心を、恐怖政治でなく掴んで、自身の志を共有してことに当たる、実は劉邦こそが「漢」、「おとこの中のおとこ」なのだ。

 

 

憲法に関する私見

憲法改正が本格的に論議され、改正の現実味が帯びてきた。

どうなんだろう。憲法が変わっても、私たちの生活はたいして変わらないよ、と言う識者もいるが、果たしてそうか? ようは憲法の何をどう変えるかで違ってくるのではなかろうか。

少なくとも自民党改憲案には、疑問符がつくことは間違いない。だから、いろいろソフトランディングな部分改憲や、解釈で考え方の変えられる条文が作られようとしている。何をどう変えるかによって、私たちの生活に影響を及ぼすことがないとは限らない。しばらくは報道に目が離せない。

何をでは、やはり注目しなくちゃいけないのは、9条、13条、18条だろう。天皇陛下の御退位で1条にも関心は集まっているが、とりあえずここでは、9条、13条、18条についての私見を述べさせていただく。あくまでも私見であって、反対意見にどうこう言うものではないが、ここでこれから書く諸々はこういった思想信条に基づくものであるとご認識いただければ幸いである。

 

9条は人類の理想

 

戦争放棄と軍隊の保持を否定した憲法9条を「非常識」だと言う人が多くいる。

南の島の小国ならともかく、先進国の大国たる日本が軍隊を持たないなんて、ありえない。先進国は皆、軍隊を持っているし、ロシア、中国、北朝鮮、韓国、台湾とも領土問題を抱えている。国際紛争を解決する手段としては軍事行動こそが世界の常識だ。それを法律で禁じている日本は非常識?

そんな、国際紛争を軍事行動でどうにかしようというほうが、私に言わせれば非常識だ。ちょっと前なら「戦争で儲かる」なんて言う資本家もいたが、今は戦争なんて、金ばかり掛かって国が疲弊し、産業や文化が停滞して、ちっとも儲からない。

実は平和憲法を制定したいと考えている先進国はいくつかある。

一番の理由は、「戦争は儲からない」からだ。

もしも戦争が儲かるなら、トランプは世界中で戦争おっぱじめているはずだ。火種はごろごろ世界中にあるのを、かなり一生懸命消して歩いているのは、彼が平和主義者なのではなく、ただただ儲からないからだ。

ただ、世の中には、かつて「戦争が儲かった」時代の旨味を覚えている権力者がいて、火種を撒いているヤカラもいるから困るし、そんなヤカラはいろんな手を使って平和憲法の制定には反対している。自国の主権を守るためには軍隊が必要で、領土と名誉のためには剣をとるのが騎士道精神みたいな、500年くらい前の旗ふったりしているのに、案外信奉している一般人も多かったりするんだ。

世界中の人々は「戦争のない」時代を望んでいる。その方法論がわからない。その一つに「平和憲法」の制定はあるんじゃないか。そのことに気付きはじめた人が増えて来ている。

そんなのは理想であって、現実離れしている。領土問題、宗教問題、経済格差、いろんなことで戦争は起こるんだ。現実を直視したら、強力な軍事力は必要なのではないか。

必要なのかもしれない。でも理想は理想でいいじゃないか。日本は世界にさきがけて、平和憲法という理想の旗を掲げた。それを、ちょっと現実離れしているからって、せっかく上げた旗を降ろすことはないのではないか。

人類の理想なんだから。この旗をめざして世界が動けばいい。

領土問題は、話し合いで解決するしかない。金銭や支援、共同開発とか、知恵を出すんだよ。そのうち国境もなくせばいいくらいの気持ちでいればいい。

宗教問題は難しいね。心の問題だから。だけど、「どの道を行くも花野は同じかな」「宗論はどちら負けても釈迦の恥」って、釈迦じゃないけれど、むしろイスラムとキリストの神は同じなんだから。うまくやろうよ。

経済格差、実は貧困さえなくなれば戦争はなくなる、と私は思う。食い物がないから、力で奪おうと考えるから戦争は起こるんだよ。

そうやって知恵を出して、理想に進む。その指針が平和憲法だと私は思う。

 

果たして日本の平和は憲法がもたらしたのか

 

これも改憲論者でよく言う人がいる。

あと、アメリカから押し付けられた憲法をなんでありがたがっているんだ。

マッカーサーが作った憲法とも言われているが、憲法研究者の意見は、当時の日本側の意見がかなり取り上げられたとも言われている。だからといって、押し付けられた憲法でないとは言えない。アメリカとしては、日本に軍隊を持たせないことで、二度と日本との戦争を避けたいという思いはあった。そこらへんを、日本の行政官たちは忖度して、憲法が出来たというところがなくもない。

だがね、どうやって作ろうと、やはり、「平和」は「世界の理想」なんだ。それに間違いはない。どうやって作ろうと、誰が作ろうと、理想の旗は掲げられて、70年以上、世界にアピールしているんだ。その旗をなんで降ろす必要があるのか。

戦後75年が経とうとしている。朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争、日本が戦争に巻き込まれそうになることは何度もあった。北朝鮮のミサイル問題も決して解決したわけではない。

日本が戦争に巻き込まれなかったのは、平和憲法があったから、というわけではない。その時代の政治家、官僚たちの外交努力のおかげであり、世界情勢もあった。ただ、ひとつのツールとして、「軍隊出せよ」「勘弁してよ、うとは憲法あるんだから。国民が納得しない」と言って逃れてきたことも何度かあるんだろう。

よく、そんなに憲法がありがたいなら、尖閣にでも六法全書持って、中国軍と戦ってみろ、とかいう人がいる。なら言うよ。、あんたは自動小銃でもロケットランチャーでも持って、戦ってみろと。出来やしまい。

一個中隊指揮してたって、北朝鮮軍の偽装船くらいなら追い払えても、人民解放軍が本気で来たら5分と持つまい。

 

自衛隊が可哀想

 

自衛隊違憲か合憲か。という論争もよくある。

自衛隊を軍隊とするなら、あきらかに違憲だろう。だが、憲法の拡大解釈で、軍隊のような軍隊ではない自衛隊という存在で合憲という、あいまいな状況にある。

災害救助とかで、あれだけ活躍してくれている自衛隊の人たちに、私たちは感謝している。その人たちに、「あんたたちは違憲だ」とか「あいまいな存在?」なんて言うのは可哀想だ、失礼だ、という意見もよく耳にする。

軍隊だから違憲で、軍隊もどきだから、あいまいなんだ。

「災害救助隊」じゃ何故駄目なのか?

子供の頃、テレビでイギリスの人形劇で「サンダーバード」ってやっていたのを覚えていますか。イギリスの退役軍人が作った5人の息子を中心にしたメンバーの国際救助隊が、超音速ロケットやさまざまな重装備を駆使して、世界中の災害や事故から人々を助ける。彼らには軍事的な能力も必要とされ訓練は受けているが、目的はあくまでもレスキューにある。

災害現場での日本の自衛隊の活躍を見るにつけ、めざすところは国際救助隊でいいじゃないかと思う。何も迷彩服で銃を手にする必要はない。

レスキューや、警察で対応できない武装団による犯罪の鎮圧、沿岸警備などを任務とする。名称はあとで考えればいい、そういう何かであればいいのではないか。戦争には行かない、任務はレスキューが中心となれば志願者も増えるのではないか。

 

13条、18条についても言いたいことはあるが、とりあえず今回はこのへんで筆を置く。またいつか、いろいろ述べたいと思う。

何年か前の8月15日に靖国神社に行った話

8月15日は終戦記念日である。

1945年8月15日に日本はポツダム宣言の受諾を発表した。1941年12月8日、日本軍がハワイ、オアフ島真珠湾アメリカ太平洋艦隊を攻撃、米英仏蘭などの連合国と戦争をはじめた、いわゆる太平洋戦争、日本側から言うと大東亜戦争終結、早い話が戦争に負けたのである。

 

靖国神社に行ってみた

 

私の生まれが、すでに戦後15年が経っている。

終戦の時に20歳の人は94歳になる。ほとんどの人が戦争を経験していない。

だから、8月15日と言われても、ピンとこないかもしれない。事実、小学校の頃は何も意識していなかった。夏休みだし。ただ遊びに行きたいだけで、8月15日を意識したことなどなかった。

はじめて靖国神社に行ったのは、いつのことだったろう。

もう大人になってからだ。

なんで行ったんだ?

よく覚えていない。

もちろん、英霊の御霊に手をあわせに行ったわけではない。たぶん、御霊祭りに靖国神社の境内に見世物小屋が出るので見に行ったんだと思う。

一時、失われゆく芸能に興味があり、夏の靖国神社冬の花園神社、あと、秋の川越祭りなどに見世物小屋が出ていると聞いて、見に行った記憶がある。

最初はそんな感じであったが、その後も何度か、靖国神社には行っている。ある時は、花見だったり、だが、ここに来るのはいつの間にか、もうひとつの目的が出来た。

 

ある8月15日、靖国神社を訪ねた時のことを記そう。

地下鉄の九段下で降りる。

とことこと坂を上がる。

今年ほどではないのかもしれないが、やはり炎天の8月15日は暑かった。

坂を登り鳥居をくぐり、しばらく行くと、参道に銅像が建っている。日本陸軍産みの親と言われる大村益次郎銅像だ。

 

大村益次郎

 

大村益次郎(1824~64)は、長州藩士。明治維新で活躍した人物だ。もともと村の医者だった。大坂の適塾蘭学を学んだが、時代の流れから医学よりも兵書を多く学んだ。ようするに、西洋の軍隊の用兵であり、大砲の撃ち方であり、軍事に精通した。どのくらい益次郎が凄かったか。その頃の大砲は、砲弾がどこに飛んでゆくか、あんまりよくわからなかった。でかい音で敵を威圧し、そこに鉄の塊の弾丸が飛んでくるので、敵は驚いて逃げる。そういう類の武器だったが、戊辰戦争で上野の山を攻撃した時、益次郎が指揮する官軍の大砲は、上野の山に彰義隊が敷いた陣地に確実に命中させた。陣地にドカンドカン弾丸が命中するから、多くの彰義隊の兵士が砲弾に倒れ、残りの者も逃げ出し、益次郎の名は官軍にその人ありと轟いた。

いや、実はその前から、大村益次郎は凄い人物だというエピソードがある。益次郎は元の名前を村田蔵六といい、村医者のあと長州藩士となり、江戸藩邸の金庫番役を勤めていた。そこにやって来たのは、井上聞多(のちの大蔵大臣、井上馨)、伊藤俊輔(のちの初代総理大臣、伊藤博文)、遠藤謹助(のちの造幣局局長)、山尾庸三(のちの法制局長官)、野村弥吉(のちに鉄道の父と言われる)の五人で、彼らは英国に密航する資金を借りに来た。蔵六は何も言わずに彼らの前に五千両の金を出した。咎められれば自分が切腹すれば済むだけ、それよりも、幕末のその時代、五人の若者が英国で学ぶことが国益になる!という考えからであった。

明治政府では、日本陸軍創設に尽力したが、明治2年に暗殺された。

 

軍歌熱唱

 

拝殿には凄い数の人が並んでいた。英霊に参拝する人たちだ。

お父さんとかお祖父さん、叔父さんとか、身内に英霊がいる人もいるだろうし、単に日本を守ってくれた人たちに感謝に来ている人たちもいるんだろう。

暑くても並んで参拝することに意義があると思う人たちである。志は立派だ。

私は英霊に手をあわせることには否定はしない。戦犯の合祀問題とか、中国や韓国の近隣国の批判もあるだろうが、話は別だと思う。

戦犯合祀問題は考え方のわかれるところで、決して気持ちのいいものではないかもしれないが、合祀されようがされまいが、気持ちの問題として、割り切れればいいじゃないか。英霊に手をあわせたいと思う人の気持ちを大切にしたい。割り切れない人は参拝しなければいいだけだ。

外交問題は、首相や議員が、マスコミの取材が殺到している中、相手の感情を煽るかのように参拝するからいけないのであって、本当に英霊に手をあわせる気があるのなら、マスコミなんかがいない朝早くに来て、そっと手を合わせて帰ればいい。

マスコミの前で参拝する、これは参拝でなくパフォーマンスだと私は思う。

首相でも議員でもない人たちは、それぞれの気持ちで参拝すればいいだけだと思う。

拝殿の横には舞台がある。ここではいろんな奉納演芸が行われている。

浪曲とかをやる時もあるそうだが、この時は、男女の混声合唱団が、なんと軍歌を熱唱していた。1時間近く歌いまくっていたね。

月月火水木金金」「ラバウル海軍航空隊」……、結構メジャー音階のウキウキする曲が多く、軍歌も面白く聞くことが出来る。

最初の勝っているうちがメジャー音階で、負けてきて、空襲とかがはじまるとマイナー音階になったなどと言われているが、ホントだろうか。

 

敗戦の検証がなされた戦史博物館

 

さて、目的の場所は、靖国神社の裏にある遊就館である。

いわゆる日本にはあまりない、いや、ここだけかもしれない、戦史博物館である。

入り口には零式戦闘機や、大砲のレプリカが飾ってあり、軍事好きにはたまらない導入部であろう。

入場料は一般1000円、大学生500円、中高生300円、小学生以下無料(遊就館ホームーページ)とある。普通の博物館もそんな値段か。高いか安いか、それは個人の興味にもよるだろう。

江戸時代の武器、刀などの工芸品から展示してある。人に聞いた話だと、浜野矩随の作った腰元彫りの刀の鍔もあるそうだが、特別展の時にしか見られないそうだ。

あとは戊辰戦争から日清、日露戦争第一次世界大戦と、時系列に日本軍の戦歴や、当時の武器などが展示されている。やがて、展示は満州事変、日中戦争(ここでは支那事変)、そして、太平洋戦争(大東亜戦争)の経緯、関連の資料が展示してある。支那事変だの大東亜戦争などの表記に問題がないとは言わないが、戦争の経緯、敗戦の原因などは客観的に記されている。戦争をもう一度検証するには、もちろん、資料から自分で考えることが大事であるが、この資料から学ぶものは大きいと思う。

最後にすべてのここに祀られている英霊の名前が記されている展示室がある。私はここで会ったことのない母の兄の名前と写真を見ることが出来た。

 

英霊に手をあわせることも重要なのかもしれないが、それだけでなく、戦争を考える意味で、この遊就館を訪ねてみることをおすすめする。

軍事おたくの人はかなり楽しめるし、歴史好きの人も面白いと思う。負けた理由がわかれば、次にやる時はどうすれば勝てるのかもわかるだろう。いや、何よりもう一度、なんであの戦争が起こったのか、どういう戦い方をして、負けたのか、その検証は一人一人がするぺきだ。

パフォーマンス参拝をする首相や議員は、遊就館に立ち寄っているのだろうか。彼らに一番に見て欲しいと思わぬでもない。

怪談の話 何故幽霊に足がないのか?

以前にも幽霊の話を書いた。

夏だから、その続きでもいいだろう。

よく幽霊には足がない、と言われているが、ホントだろうか。

いや、幽霊なんていないんだから。そんな話が不毛だ。

と言っては、もともこもない。幽霊がいる、いないはともかく、一般的に幽霊に足がない、と言われている。足がないと言われているのは何故だろうか。

 

江戸時代の中頃までは幽霊にも足があった

 

実は江戸時代の中頃までは幽霊にも足があった。

昔の浮世絵の幽霊画には足がちゃんと描かれている。

移動はふわふわと飛ぶのだが、立つ時は二本の足でしっかり立っている。

ではいつ頃から、どうして幽霊に足はなくなったのであろうか。

結論から先に言おう。

円山応挙(1733~95)が足のない幽霊の絵を描いてから、「幽霊は足がない」ことになった。

ようするに下半身をボカして描いた。そうすることで、幽霊のはかなさを描いたんだ。それで幽霊がより幽霊らしく見えた。

そして、歌舞伎で、初代尾上松緑(1744~1815)が幽霊役を演じた時、長い裾の着物で足を隠して摺り足で歩いたところ、客からは足のない幽霊に見えた。これが幽霊役の定番となり、浮世絵と歌舞伎で「足のない幽霊」のイメージが定着した。

幽霊なんて見た人はいないのに、幽霊のイメージが歌舞伎や絵画によって一般化したのだ。

 

足のない幽霊が下駄を履いてやって来る

 

幕末から明治に、怪談噺を多く創作したのが三遊亭圓朝(1839~1900)。「真景累ヶ淵」「牡丹灯籠」「江島屋騒動」などの作品がある。

中でも有名なのが「牡丹灯籠」だが、「牡丹灯籠」は「足のないはずの幽霊に下駄を履かせた」と言われ、当時おおいに話題になった。

根津清水谷(現在の台東区、千代田線千駄木駅近く)に住む浪人、萩原新三郎はかなりのイケメンだった。一度だけの逢瀬だが、旗本、飯島平左衛門の娘の露は新三郎に恋焦がれてしまう。新三郎も露を憎からず思ったが、二人は身分違いなため、新三郎は諦めて露に逢いに行くことはなかった。ために、露は恋煩いで亡くなる。そして、谷中三崎(現在の台東区で、千代田線千駄木から坂を登って行ったところ)の寺に葬られるが、これが幽霊になって恋しい新三郎の家を訪ねる。

この時、露は下駄を履いていて、カランコロン、カランコロンと、下駄の音を立てて三崎の坂をやって来るのだ。

死んだというのは嘘だと言う露の幽霊と新三郎は逢瀬を重ね、やがて新三郎はとり殺されてしまう。

「牡丹灯籠」は最初に演じられたのは幕末だが、明治時代に改作を繰り返された。だから、結果、ただの怪談ではない。文明開化の時代にあわせて、新三郎を殺したのは幽霊ではなく、長屋に住む悪党の伴蔵であったというミステリーになっている。それはラストの謎解きでわかる話だが、前半は新三郎と露の主観で話がすすむので、新三郎の露への愛から恐怖への心の変遷と、露の一途さが描かれ、「愛」をテーマにした怪談噺になっている。

さて、イケメンの新三郎と相思相愛となるのであるから、露もそれなりの美女でなくてはいけない。だいたい幽霊は美女に決まっている。

 

幽霊は皆、美女

 

幽霊はたいてい美女だ。

これも円山応挙の責任が大きい。応挙の描く幽霊はたいていが美女なのである。

幽霊が美女でなくてはいけないという規則は別にないが、たいていは美女だ。「四谷怪談」のお岩さんは死ぬ直前に劇薬を飲まされて顔が恐ろしい形相になるが、もともとは美女だ。美女の形相が崩れるから美しいものが醜く変わることで生まれる恐ろしさがある。

雨月物語」の男をとり殺すような幽霊も美女だ。もっとも醜女にとり殺される男はあまりいまい。

幽霊になってまで恨みを晴らす(「牡丹灯籠」は愛を貫く)のだから、これはかなり気が強い女でもある。ターゲットを追い詰めて、いたぶり殺す。これはドSだな。

だいたい怪談が好きな人は怖がりたい人で、恐怖が快感となるマゾヒズム的な楽しさもある。ただ怖いだけよりも、美女が怖いほうがいい。怪談が受けるのは、こうしたドS幽霊の魅力もあるのかもしれない。

してみると、美女の幽霊というのは、幽霊が美女であったほうが興奮するという男性の怪談好きのニーズであり、それに応えて怪談の作者や幽霊画の絵師が創造したに過ぎないのかもしれない。

一方、円山応挙の描く、うりざね顔の美女はドSっぽくはない。恐ろしさと同時に、はかなさがあるのが幽霊なのだろう。

はかなさに美しさを見出すというのがあるのだろう。

それもまた怪談好きの男たちのニーズであったのだろう。

谷中・全生庵(三崎にある)には三遊亭圓朝墓所があり、圓朝が集めた幽霊画が展示されている。中で「牡丹灯籠」の画もあるが、露の顔は骸骨に描かれている。新三郎には美女に見えるお露が絵師の目からは恐ろしい骸骨に見えるということなのだろうか。

「髪は文金の高髷に結い、着物は秋草模様の振袖に縮緬長襦袢に繻子の帯をしどけなく締め、上方風の塗柄の団扇を持って、ぱたりぱたりと通る…」(三遊亭圓朝「怪談牡丹灯籠」岩波文庫

幽霊だからって白の帷子じゃない。露はちゃんと娘らしい着物を着ている。これは新三郎にだけ見えた幻覚なんだろうか。してみると、幽霊に足がある、なしも、見た人の主観ということになる。新三郎は幽霊でない露が訪ねて来たと思った。だから、露には足があったのかもしれない。

甘味屋に男性が一人で入るというこついて

甘いものが好きである。だから、デブなんだ。

おおきなお世話だ!

ケーキも好きだが、餡子系のもの、和菓子が好きだ。

暑い毎日が続く今日この頃、街を歩いていると、ついついコーヒーショップに寄りたくなるが、コーヒーショップに寄るなら、甘味屋に寄る。寒天系のもの、あんみつ、くずきり、なんかが美味しい。甘いものが食べたくない時は、トコロ天でもいい。いまの季節だと、かぎ氷っていう手もある。

そう言えば、ここ何年か、かき氷ブームで、雑誌などに紹介される有名店には長蛇の列ができている。かき氷なんか並んでまで食うものかと思ったが、実際に食べてみたら(並ぶのが嫌だから、夏になりかけの午前中とかに行ったんだが)、氷が違う、シロップが違う、トッピングが違う、いまどきのかき氷は、なかなかあなどれないものがあるのだ。

 

好きな甘味屋

 

かき氷の話ではない。甘味屋だ。だいたい出掛ける場所には、よく行く甘味屋がある。

上野は、やはり「みはし」だね。昔の地名、三橋にある。橋があったんだ、昔は。不忍池の向かい側。あんみつはだいたい粒餡が好きだが、「みはし」はこし餡でもうまい。甘くなく、さらさらとした食感にホッとする。いつも混んでいるから、上野駅のアトレ店もおすすめである。

新宿は「追分団子」。店に入って、あんみつもいいが、団子を買って、外のベンチで新宿通りを行く車を眺めながらの一服も捨て難い。ここはかつて、甲州街道の一番目の宿場町、内藤新宿だった。本来は高井戸が一番目の宿場のはずだったが、元禄の頃に、ここに繁華街を作れば儲かると思った連中が幕府に願い出て宿場町という名の歓楽街を作った。徳川吉宗享保の改革で廃止されたが、田沼意次の時代に復活、昭和の時代まで、赤線青線で賑わい、現在も新宿二丁目がすぐ傍だ。そんな昔の面影を偲びつつ、団子を食べるのもいい。そう、江戸時代は今の新宿二丁目あたりは唐辛子の畑だったらしい。唐辛子は新宿の名物だった。

飯田橋の「紀之善」も好きな店で、ここは、まめかんがおすすめ。寒天と豆だけのシンプルな奴。黒蜜に、塩辛い豆がいっぱい入っていて、味のコントラストがいい。

渋谷は、あんまりないね。チェーン店だけど、西武デパート地下の「麻布茶房」。すいていていいし、場所がわかりやすいから、待ち合わせによく使う。

浅草は観光地だから、滅多に甘味屋には入らない。どこも混んでいるが、すいているのビューホテルの一階の甘味屋。ここも待ち合わせにはいい。

 

甘味屋に男は入り難い

 

ただし、男一人で入り難いのも甘味屋だ。

なんでだろう。立ち飲み屋に女性は平気で入れるのに。いやいや、それも勇気がいる。たいていはカップルか、ツワモノ印の女性軍団でないと厳しい。一人で仁王立ちになって、立ち飲み屋でビールあおっている女性もいなくはないけれどね。

甘味屋もカップルはOKなんだ。だが、男一人はやはり浮いた存在だ。

甘味屋はある意味、女性の聖域でもあるのか。聖域はオーバーだが、おばさまたちがペチャクチャやる場所で、基本は男子禁制でいいんじゃないか、という意見が大半だ。

積極的に甘味屋に入りたい男なんていないんだよ、という考え方もある。甘味屋に入る男は、パートナーに無理矢理に連れて来られる男性に違いない。そろそろ会社も定年近くて、そんなに忙しくもないから奥様のお供で買い物に来て、ちょっと疲れたからと甘味屋に入ってきて、さて座ったものの何を食べていいかもわからず、抹茶(お菓子付)かなんかを頼む、そんな初老のおじ様。甘味屋にいる男性はだいたいそんなもんだ。

でもね、男だって、あんみつは食べたい。

あんみつを食べるのに、男だ女だと性差別をしていいのか!

いやいや、世の中はね、まだまだいろんなところで性差別はあるんだ。たいていは女性や、あるいはLGBTの人なんかが差別され、不利益を被っている。だから逆に、女性がホッとできるわずかな空間、甘味屋にまで男は進出してはいけないんだ。少しは遠慮しろよ。という意見が実は案外多かったりする。

そこはあくまで、甘味屋で、だから「男子禁制」とは声高には言わない。なるべく男性だけのご入店は「ご遠慮ください」という低姿勢な態度だ。そこを入っていく男のお前はなんなんだ。

かつてただ、ここがうまい、あそこがうまいという感じで甘味屋探訪記をネットに書いた時に、そんな批判を書かれたこともあったっけ。

スウィーツ男子なんていうのもモテ囃されているが、それはイケメンのタレントとかの話で、やはり、おじさんが甘味屋に入って来るのに抵抗を感じる女性はいるのだ。

 

それでも私は甘味屋に行く

 

それでも平気で甘味屋に行く私は、どれだけ無神経な奴なんだ。

昔はなるべくカップルで行ったよ。いまや、爺だから、一緒に行ってくれる女性もいなくなった。仕方がないから一人で行くんだ。

だから、混んでいる店はなるべく避ける。「みはし」や「紀之膳」は混んでいるから、なるべく目立たないように、そっと食べて、早々に退店する。

そうまでして食べたいのか。食べたいよ。ケーキには替え難い、買って帰る団子では味わえない、いや、買って帰る団子には団子のよさがあるが、それはいずれ語ろう。ケーキや団子とは違うんだ。あんみつの魅力は。

ツルんとした寒天の食感、なるべく黒蜜がいいね。黒蜜の濃厚な甘さ、それをさらに餡子の甘さで増殖させるうまさ。みかんの缶詰や、あんずや、時にバナナやメロンが入っているのも、フルーツの甘味、酸味とのコントラストに心やすまる。

これはね、女性だけの楽しみではない。甘味屋の場所は女性の物かもしれないが、あんみつを食べる権利は誰にでもあるんだ。

もしも甘味屋が高圧的に「男子禁制」を唄うなら戦う。低姿勢に「ご遠慮願いたい」と言うなら、遠慮しつつ時々静かに行く。戦っても、それは店の方針だから負けるんだろうけれど。いまは、そういう店も少なくなったのかもしれないが、それでも男性一人の客は甘味屋には少ない。それはまだ、男たちがあんみつの旨さに気づいていないだけなのかもしれない。

高齢者の免許証返納問題について

人が亡くなっていることだから、あまり軽はずみなことを言ってはいけないのかもしれない。 

高齢者の方が運転の操作ミスで起こす交通事故が多発している。そのために高齢者は運転を控えるべき、さらには、免許証を返納すべきなどの意見が聞かれる。

いや、ワイドショーなどではコメンテーターが口を揃えて、「危険」を連呼し、「事故が起こってからでは遅い」と訴える。まるで免許返納キャンペーン番組になっている。

「危険」はわかる。自身で「老い」を感じたなら、運転しないほうがいいというのはわかる。ただ人間個人差もある。元気な高齢者もいる。いや、元気でない高齢者で、通院に車を使いたい人もいる。そのほうが深刻である。皆、いろんな事情を抱えている。一律に免許返納することを、半ば脅しに近いかたちで高齢者に求めるのは、あまりにも酷ではなかろうか。

 

足を奪われたらどうなる

 

地方などでは、電車、バスの本数も少ない。やはり、居住者の足は車になる。そうした集落に住む人たちは、通院、買い物に車を使う。そうした村には、高齢者のみの世帯もある。そこで免許証返納という、彼らの足を奪うことは、生活を奪うことになりかねない。もちろん、自治体も、通院用のバスを運行したり、タクシーチケットを配ったりということもしているだろう。しかし、自治体それぞれの事情もある。すべての自治体でカバーできているわけではない。

また、都会に住んでいれば問題がないわけではない。東京でも、地下鉄などでエレベーターのない駅もまだまだ多くある。通院などで利用するには高齢者には過酷な場合もある。そして、誰もが駅の前に住んでいるわけではないということだ。

自身で運転しなくても、息子や娘や孫に送ってもらう、これが一番なのはわかるが、息子や娘や孫にはそれぞれ生活がある。たまの通院なら送迎できても、いつもいつもというわけにはゆかない。

通院はまだいい。買い物ともなれば、荷物を持って、電車に乗ったり、歩いたりしなければならない。

高齢者こそが車を必要としているのである。

 

危険なのは高齢者だけではない

 

実際に事故がニュースになって、高齢者ドライバーの危険性がクローズアップされている。しかし、危険なのは高齢者に限った話ではない。

実際に車で走っていると、急な割り込みやら、あるいは割り込ませないために急加速したり、運転マナーのよくない人はずいぶんいる。近年の「あおり運転」なんかも、ない話ではないのだ。

もっと言えば、あれだけ大きな事故が起きながら、いまだになくならない「飲酒運転」はなんなんだ。いまでも時々飲酒運転の検問で止められるのは、いまだに飲酒運転がなくならないからだ。それにしても検問のおまわりさんも大変な仕事だ。機械とは言え、「息を吐きかけてください」って、酒飲んでなくても息の臭い人はいくらもいるのだ。

私もたまに酒は飲むが、飲酒運転はしたことがないよ。逆に車で行っていると、酒席を断る言い訳にもなる。そんなことはどうでもいい話だ。

 

働く高齢者に厳しい

 

もう一つ、高齢者でも働いている人はいるということだ。

いきがいで働いている人、その人の特殊能力で、高齢でも求められている人など、いろいろいるが、一番大きな問題は、生活のために働かざるを得ない高齢者がいるということだ。

いまの時代、そうそう楽隠居はさせてはくれない。年金で慎ましく暮らす、それも選択肢の一つだが、慎ましく暮らすことすら難しい。ましてや、自営業者などで国民年金しか入っていない人に、年金で慎ましく楽隠居なんて無理な話だ。高齢だから仕事の規模を縮小してそのぶんを年金で補填している人はいるだろうが、結局仕事はしなければならない。

息子、娘が立派で引き取って生活の面倒を見てくれる人もいるだろうが、時代の流れで、それが主流ではなくなっている。もちろん、現役時代にうんと稼いで、アパートでも建てて家賃収入、株などで配当収入で暮らすという人もいるだろう。そんな人ばかりではないのだ。

働くことが狭き門だよ、高齢者は。そこにさらに免許証返納とはたら、手足縛られる様なものだ。

植木屋さんとか、軽トラで高齢の職人さんが来てくれたりする。そういう職種には車は欠かせないものだろう。

高齢者と一くくりにすることがまず間違っていないか。

高齢者もいろんな事情を抱えている。元気な人、病気な人、楽隠居したい人、仕事したい人、仕事をしなければ生活できない人、家族がいる人、夫婦だけの人、独居の人……、それぞれ違う。車のいらない人もいれば、ないと困る人もいる。もともと免許がない人もいる。

高齢者にも個を認めて、年齢だけでない対応をすべきなんじゃないのか。

一律免許返納の法律化の動きもあるらしい。政治家も高齢者が多いが、運転手付の公用車で国会に通っている人たちには、免許がなければ暮らせない人たちの気持ちはわかるまい。

もっと言えば、政治家なんて、国家を運転しているようなものだ。あんまり高齢の政治家がうっかり暴走、なんていうことのほうが怖くはないか。

 

道はやはり技術革新

 

道を歩いていて思うのは、よたよた歩いている高齢者の人のほうが危険は大きいかもしれない、人は巻き込まないが、自身が事故に遭う可能性は大きい。自転車も怖い。高齢者で自転車を飛ばしている人を見かける。転んだら大惨事になる。

危険は車だけではないのだ。

もっと言ってしまえば、毎年毎年、正月に餅を喉に詰まらせて死ぬ高齢者がいる。高齢者は餅を食うのも命懸けなのだ。

だから。

高齢者に優しい政策が望まれる。

車だけでなくね。

高齢者はいろいろな経験を積んでいる。体力や反射神経の限界はある程度はわかる。そういう人は言われなくても運転はしなくなる。

もしも免許証を取り上げるなら、それに代わる足は最低確保するのが、政治の責任だと思う。

あとは誤作動防止や、自動運転などの技術革新がキーになる。

実際にそういう車が現実に登場すれば、何も免許返納を声高に言わなくてもいいはずだ。

一つは技術、あとは個人が、優しさをもって接すること、それが最優先だと思うのだが。

紙芝居の話

紙芝居を知っていますか?

いまもイベントなんかに行くと、出ていたりする。

図書館なんかにも、あるんじゃないかなぁ。図書館の紙芝居は、ボランティアのお兄さん、お姉さんが、曜日を決めて、やってくれたりすることもあるし、高学年の子供たちで借りて、低学年の子供たちにやってみせてあげるような学校行事もあるんじゃないかなぁ。

イベントの紙芝居は、なかなか面白い。絵も昔の絵で。ようするに昭和30年代の再現みたいな感じなのかなぁ。

 

紙芝居のおじさんは自転車に乗って来る

 

昭和40年代に小学生だった筆者は、実はほんの数回だが、紙芝居を見た経験がある。

近所の児童公園におじさんは来ていた。紙芝居はおじさんだった。おじいさんだったかもしれない。女性はいなかったし、若い人もいなかった。

自転車に紙芝居と、お菓子の箱を積んで来る。お菓子の箱の中には、薄い煎餅や、麩菓子、水飴なんかが入っている。水飴は割り箸にまいてくれて、決してうまいとは言えないジャムをつけてくれる。ジャムも苺じゃない。みかんとか、梅とか、しかもやたら甘いだけのジャムだ。煎餅にも確かジャムを塗っていたような記憶がある。

子供たちが集まって来て、お菓子を売る。水飴が50円くらいだったと記憶している。他のものはいくらだったかなぁ。

で、しばらく売って、いなくなっちゃう時もある。子供たちの集まりがいいと、紙芝居をはじめる。あちらも商売だから。結局、この菓子の売り上げが少なければ、別の場所でもう一商売と思うのだろう。

紙芝居は30分くらい。最初に、「なぞなぞ」みたいのをやって、あとは子供が主人公の、なんか話だ。記憶なんていうのは曖昧だ。なんの話かなんてまるで覚えていない。だが、子供が主人公で、当時テレビでやっていた「ケンちゃんシリーズ」みたいな話だったような気がする。

後年、資料で見た「黄金バット」とか、「怪人二十面相」なんかの紙芝居は当時は見たことがない。見たことがないなんて断定することはない。私が見たのも、たぶん五回あるかないかくらい。だから、どっか別の場所ではやっていたのかもしれない。そのくらい紙芝居のおじさんが来ることは滅多になかったし、実は親に紙芝居の水飴を買って食べた話をしたら、滅茶苦茶怒られた記憶もある。

 

紙芝居とは何か

 

黄金バット」の作者、加太こうじ氏(1918~98)は作家として小説も書いているし、昔の芸能や風俗に関するエッセイも多数執筆されているが、もともとは紙芝居をやっていたらしい。そのことをご自身のエッセイでも書かれている。

 話は戦前だ。もともと高市(祭りの縁日)で人形劇を見せていたのが、紙芝居のルーツらしい。歌舞伎のネタとか、「西遊記」なんかの活劇物をやり、子供たちに人気だった。関東大震災で失業者が町にあふれ、生活のために、路上で人形劇を子供たち相手に見せる人たちが現われた。この時に、高市では入場料をとっていたのを、駄菓子を売って入場料代わりにするというシステムをはじめたと加太氏は書いている。

ところが路上で人形劇をやっていた人たちがある日、警察の摘発を受けた。お菓子屋の組合が訴えたらしい。「失業者が子供たちに菓子を売っている。風紀上問題がある」

その時、ある青年が人形劇ではなく絵本の説明というやり方をはじめた。教育的な絵本であるから、風紀の問題はない、この理屈には警察も何も言えなかったらしい。絵本の説明、これが紙芝居のはじまりで、それが工夫され、昭和のはじめには紙芝居として全国展開し、まさに子供たちの人気を集める。

テレビなんかない。ラジオはあるが、NHKしか放送していないし、まだ各家庭にあるわけではない。ラジオのある家でも、神棚か仏壇の横に鎮座していた。NHKは子供番組も放送していたが、よほど裕福な家でないと、子供はラジオなんか聞かせてもらえない。むしろ子供も親と一緒に広沢虎造浪曲清水次郎長伝」を聞かされていた。だから、いま90歳くらいの爺さんは「旅行けば~」なんて浪曲をうなれたりする。

そんな話はどうでもいい。テレビもなく、ラジオはあっても子供が聞くことのできない時代、紙芝居は子供たちの最高の娯楽だった。

 

何故紙芝居の物語は面白かったのか

 

絵本の説明をはじめた青年が、加太こうじ氏だった。そして加太氏は紙芝居で「黄金バット」を発表する。円盤に乗ってやってくる地球征服を企む怪人ナゾーと、正義の博士たちが戦うのだが、博士たちがピンチになった時に現われるのが、骸骨姿の正義の味方、黄金バットである。

映画的なテンポのある展開と、物語もSFで、これが子供たちの心を掴まないわけがなかった。

昭和7年には、全国の子供たちが「黄金バット」に胸踊らせた。昭和12年には、絵の製造とリースをする会社ができ、どんどん面白い物語や絵が作られて人気を博していった。

きっかけは加太こうじ氏の「黄金バット」だった。

しかし、当時、左翼くずれの知識人でまともな職業に就けずに、紙芝居になる人が何人かいた。そうした知識人たちが、紙芝居の物語を作っていた。だから、SFや、推理もの、妖怪もの、もちろん、教育的なお話も、子供たちが喜びそうな話が量産されていったのだ。

紙芝居の最初の衰退は、戦争だ。太平洋戦争が激化し、疎開で街に子供たちがいなくなると、紙芝居は一気にすたれてしまった。

 

戦後は復員兵の失業対策

 

戦後、多くの復員兵が戻ってきたが、彼らには仕事がなかった。街に失業者が溢れていた。そんな中で政府は、復員兵の失業者に紙芝居になることを奨励していた時期があったという。もともと失業者たちがはじめた仕事である。絵を描いたり物語を作ったりするのとは別に、子供相手の語りでそんなに芸は必要ない。むしろ、素人芸で、お父さんやお兄さんがお話を聞かせるというほうが好まれたのだ。最盛期には紙芝居屋は五万人を超えていたと言われている。それが昭和30年頃まで続いた。

一気に衰退するのはテレビの登場からだ。昭和28年にはじまったテレビは、昭和33年の皇太子ご成婚、昭和38年の東京オリンピックで飛躍してゆく。昭和34年には、紙芝居屋は千人に減ってしまった。そして、昭和40年代にはほとんど街から姿を消していた。

 

心に残る紙芝居

 

絵を見せて語り、菓子を売って収入を得る紙芝居は、テレビ時代に衰退した。

イベントの紙芝居にノスタルジーを感じるのは、せいぜいが我々の世代までだ。

一方で今日でも、図書館などに紙芝居は残っている。

教育の世界で、紙芝居はまだ生きている。

何故か。動かない絵に、子供たちが興味を持つのだ。アニメで慣れた子供たちにも、ただの絵に惹かれるものがある。そして、語りだ。俳優や落語家がやるようなうまい語りでなく、お兄さんお姉さんの一生懸命な語りに、子供たちは惹きつけられる。

実は筆者は紙芝居を見たことは数回しかないが、やったことはずいぶんある。というのも小学校六年くらいの頃に、低学年の教室で紙芝居をやる係をやったことがある。もちろん「黄金バツト」でも「西遊記」でもない。「トマトの冒険」とか、そういうヤツ。トマトを擬人化して、畑から食卓までの流通を面白く説明したもの。そういうのを読んだ。あの時経験した低学年の子供たちの真剣なまなざしは、実はいまでも忘れられないものがある。

ただの六年生のお兄さんが読む、そんなものだ。そんなものが、結構低学年の心に刻まれるとしたら、すごいことだ。

だから、今でも紙芝居が教育現場では、用いられ続けている。

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