紙芝居の話

紙芝居を知っていますか?

いまもイベントなんかに行くと、出ていたりする。

図書館なんかにも、あるんじゃないかなぁ。図書館の紙芝居は、ボランティアのお兄さん、お姉さんが、曜日を決めて、やってくれたりすることもあるし、高学年の子供たちで借りて、低学年の子供たちにやってみせてあげるような学校行事もあるんじゃないかなぁ。

イベントの紙芝居は、なかなか面白い。絵も昔の絵で。ようするに昭和30年代の再現みたいな感じなのかなぁ。

 

紙芝居のおじさんは自転車に乗って来る

 

昭和40年代に小学生だった筆者は、実はほんの数回だが、紙芝居を見た経験がある。

近所の児童公園におじさんは来ていた。紙芝居はおじさんだった。おじいさんだったかもしれない。女性はいなかったし、若い人もいなかった。

自転車に紙芝居と、お菓子の箱を積んで来る。お菓子の箱の中には、薄い煎餅や、麩菓子、水飴なんかが入っている。水飴は割り箸にまいてくれて、決してうまいとは言えないジャムをつけてくれる。ジャムも苺じゃない。みかんとか、梅とか、しかもやたら甘いだけのジャムだ。煎餅にも確かジャムを塗っていたような記憶がある。

子供たちが集まって来て、お菓子を売る。水飴が50円くらいだったと記憶している。他のものはいくらだったかなぁ。

で、しばらく売って、いなくなっちゃう時もある。子供たちの集まりがいいと、紙芝居をはじめる。あちらも商売だから。結局、この菓子の売り上げが少なければ、別の場所でもう一商売と思うのだろう。

紙芝居は30分くらい。最初に、「なぞなぞ」みたいのをやって、あとは子供が主人公の、なんか話だ。記憶なんていうのは曖昧だ。なんの話かなんてまるで覚えていない。だが、子供が主人公で、当時テレビでやっていた「ケンちゃんシリーズ」みたいな話だったような気がする。

後年、資料で見た「黄金バット」とか、「怪人二十面相」なんかの紙芝居は当時は見たことがない。見たことがないなんて断定することはない。私が見たのも、たぶん五回あるかないかくらい。だから、どっか別の場所ではやっていたのかもしれない。そのくらい紙芝居のおじさんが来ることは滅多になかったし、実は親に紙芝居の水飴を買って食べた話をしたら、滅茶苦茶怒られた記憶もある。

 

紙芝居とは何か

 

黄金バット」の作者、加太こうじ氏(1918~98)は作家として小説も書いているし、昔の芸能や風俗に関するエッセイも多数執筆されているが、もともとは紙芝居をやっていたらしい。そのことをご自身のエッセイでも書かれている。

 話は戦前だ。もともと高市(祭りの縁日)で人形劇を見せていたのが、紙芝居のルーツらしい。歌舞伎のネタとか、「西遊記」なんかの活劇物をやり、子供たちに人気だった。関東大震災で失業者が町にあふれ、生活のために、路上で人形劇を子供たち相手に見せる人たちが現われた。この時に、高市では入場料をとっていたのを、駄菓子を売って入場料代わりにするというシステムをはじめたと加太氏は書いている。

ところが路上で人形劇をやっていた人たちがある日、警察の摘発を受けた。お菓子屋の組合が訴えたらしい。「失業者が子供たちに菓子を売っている。風紀上問題がある」

その時、ある青年が人形劇ではなく絵本の説明というやり方をはじめた。教育的な絵本であるから、風紀の問題はない、この理屈には警察も何も言えなかったらしい。絵本の説明、これが紙芝居のはじまりで、それが工夫され、昭和のはじめには紙芝居として全国展開し、まさに子供たちの人気を集める。

テレビなんかない。ラジオはあるが、NHKしか放送していないし、まだ各家庭にあるわけではない。ラジオのある家でも、神棚か仏壇の横に鎮座していた。NHKは子供番組も放送していたが、よほど裕福な家でないと、子供はラジオなんか聞かせてもらえない。むしろ子供も親と一緒に広沢虎造浪曲清水次郎長伝」を聞かされていた。だから、いま90歳くらいの爺さんは「旅行けば~」なんて浪曲をうなれたりする。

そんな話はどうでもいい。テレビもなく、ラジオはあっても子供が聞くことのできない時代、紙芝居は子供たちの最高の娯楽だった。

 

何故紙芝居の物語は面白かったのか

 

絵本の説明をはじめた青年が、加太こうじ氏だった。そして加太氏は紙芝居で「黄金バット」を発表する。円盤に乗ってやってくる地球征服を企む怪人ナゾーと、正義の博士たちが戦うのだが、博士たちがピンチになった時に現われるのが、骸骨姿の正義の味方、黄金バットである。

映画的なテンポのある展開と、物語もSFで、これが子供たちの心を掴まないわけがなかった。

昭和7年には、全国の子供たちが「黄金バット」に胸踊らせた。昭和12年には、絵の製造とリースをする会社ができ、どんどん面白い物語や絵が作られて人気を博していった。

きっかけは加太こうじ氏の「黄金バット」だった。

しかし、当時、左翼くずれの知識人でまともな職業に就けずに、紙芝居になる人が何人かいた。そうした知識人たちが、紙芝居の物語を作っていた。だから、SFや、推理もの、妖怪もの、もちろん、教育的なお話も、子供たちが喜びそうな話が量産されていったのだ。

紙芝居の最初の衰退は、戦争だ。太平洋戦争が激化し、疎開で街に子供たちがいなくなると、紙芝居は一気にすたれてしまった。

 

戦後は復員兵の失業対策

 

戦後、多くの復員兵が戻ってきたが、彼らには仕事がなかった。街に失業者が溢れていた。そんな中で政府は、復員兵の失業者に紙芝居になることを奨励していた時期があったという。もともと失業者たちがはじめた仕事である。絵を描いたり物語を作ったりするのとは別に、子供相手の語りでそんなに芸は必要ない。むしろ、素人芸で、お父さんやお兄さんがお話を聞かせるというほうが好まれたのだ。最盛期には紙芝居屋は五万人を超えていたと言われている。それが昭和30年頃まで続いた。

一気に衰退するのはテレビの登場からだ。昭和28年にはじまったテレビは、昭和33年の皇太子ご成婚、昭和38年の東京オリンピックで飛躍してゆく。昭和34年には、紙芝居屋は千人に減ってしまった。そして、昭和40年代にはほとんど街から姿を消していた。

 

心に残る紙芝居

 

絵を見せて語り、菓子を売って収入を得る紙芝居は、テレビ時代に衰退した。

イベントの紙芝居にノスタルジーを感じるのは、せいぜいが我々の世代までだ。

一方で今日でも、図書館などに紙芝居は残っている。

教育の世界で、紙芝居はまだ生きている。

何故か。動かない絵に、子供たちが興味を持つのだ。アニメで慣れた子供たちにも、ただの絵に惹かれるものがある。そして、語りだ。俳優や落語家がやるようなうまい語りでなく、お兄さんお姉さんの一生懸命な語りに、子供たちは惹きつけられる。

実は筆者は紙芝居を見たことは数回しかないが、やったことはずいぶんある。というのも小学校六年くらいの頃に、低学年の教室で紙芝居をやる係をやったことがある。もちろん「黄金バツト」でも「西遊記」でもない。「トマトの冒険」とか、そういうヤツ。トマトを擬人化して、畑から食卓までの流通を面白く説明したもの。そういうのを読んだ。あの時経験した低学年の子供たちの真剣なまなざしは、実はいまでも忘れられないものがある。

ただの六年生のお兄さんが読む、そんなものだ。そんなものが、結構低学年の心に刻まれるとしたら、すごいことだ。

だから、今でも紙芝居が教育現場では、用いられ続けている。

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夏だから、幽霊のお話

「幽霊を信じますか?」

という質問をすると、30%~50%くらいが「信じる」と答えるけれど、

「幽霊を見たことがありますか?」

という質問をすると、「ある」と答えるのは1%いるかいないか。統計によっては0%もある。

見たこともないものを信じられるのか? 外国の都市とか行ったことがなかったって、多分その町はあるんだから。別に見たこともないものだって存在はするんだ。

でも統計で1%以下は少ないね。

かく言う私も「幽霊は見たことがない」

なかなか見ることができないから、幽霊なんだね。

 

幽霊と妖怪はどう違うのか

 

妖怪っていうのが流行っている。

流行っているっていうのかね。漫画の「ゲゲゲの鬼太郎」とか、ずいぶんカワイイ妖怪がたくさんいるから。

妖怪グッズなんか、バッグに下げている女の子もいたりする。

で、幽霊と妖怪ってどう違うの?

落語でこういうお話があるよ。

ある醜女が怨みを残して死んだ。地獄の役人に「幽霊になりたい」と言ったら、至極の役人は「醜女は幽霊にはなれない」と言った。がっかりして帰ろうとする女に地獄の役人が言った。「あー、待て。幽霊にはなれないが、化け物を願い出よ」

つまり美女は幽霊で、醜女は化け物?

酷い話だね。

いや、これは酷い話ではないんだ。なんにでもセーフティネットがあるという話。

どうしても怨みを晴らしたいなら、幽霊になるだけでなく、いろんな方法がある。

それは落語の話。

いま、美女と醜女と言ったけれど、男の幽霊だっている。

別に幽霊に男女差も美醜差もない。

と思うよ。多分。

幽霊と妖怪の違いは、目的があるかないか。幽霊は、怨みとか、なんか目的があって出る。妖怪は無目的に出る。のっぺらぼうやろくろ首に目的はない。人を驚かして喜んでいるだけ。中には捕食目的で出る妖怪もいる。これは怖いね。食われちゃたまらん。でも、山から下りて来る熊や猪と同じで、妖怪も人間のことが怖いのかもしれない。だから、山に住んでいる妖怪が、ときどき町にやって来て人を驚かして、山には怖い妖怪がいるから、近付かないほうがいいよ、と警告しているのかもしれない。

そう。山はかつて霊山で。そこは人が踏み入ってはいけない場所だったんだよ。

妖怪の中には、山の神…のお使いもいたりする。それが妖怪。

一方の幽霊はもっとナマナマしい存在なんだ。

 

幽霊には物語がある

 

幽霊には目的がある。

殺される、酷い目にあって自殺に追い込まれる、男(女)を取られる、財産を取られる、そうした怨みを抱いて死ぬと、幽霊になる。

くやしい。こん畜生、怨んでやる、呪ってやる、そんな魂の思いを「執念」という。「執念」が、幽霊を生む。

普通は死ぬと、あの世へ行くんだ。地獄だか極楽だか、これも行ったことがないからよく知らないけれど、どっかに行く。幽霊は行かない。魂が今世に残って。目的を果たす。

怨みのある相手をとり殺す、あるいは怖がらせて謝らせて、それで納得して成仏する場合もある。執念が強いと、強い幽霊になる。弱い幽霊だと、強い僧侶や霊能者を連れて来られて成仏させられちゃう場合もある。

怪談が流行っているけれど、いまどきの怪談は幽霊が出て来て「怖い」というのが多いが、本来は主人公が幽霊になるにいたる物語を聞かせるのが怪談だ。

幽霊になるんだ。幽霊になるほど「怨む」。そうとうな「怨み」だ。「怨み」に至る物語が面白い。それを聞かせるのか、本来の「怪談」だった。

 

怨みだけじゃない。愛が強くても幽霊は出る

 

「執念」は何も「怨み」だけではない。「愛情」が強過ぎても「幽霊」になる。

牡丹灯篭」って話を知っているか。

根津に住む浪人で美男の新三郎と、旗本の娘のお露が恋仲になるんだけれど、これは身分違いの恋だ。新三郎はお露の親に咎められるのが怖くて、この恋を諦める。そうこいするうちにお露が死んだと聞かされて、逢いに行かなかったことを悔やむけれど仕方がない。念仏三昧の日を送っている。お露はこの恋を諦められなかった。新三郎に恋して、恋し過ぎて死んで幽霊になって新三郎に逢いに行く。そして、新三郎はお露の幽霊に取り殺される。

女は怖いね。ある意味、ストーカーか。恋しくて恋しくて、しょうがない相手を取り殺す。二人して、地獄だか極楽に行って幸福に暮らしたのか。ファンタジーならそれでもいいし、怖い女の話としても面白い。

やっぱり幽霊は怖いんだ。身分違いの恋を諌める、あるいは、美男はあんまり女性にいい顔を見せないほうがいいよ、女が思いつめると怖いよ、という話なのか。

実は「牡丹灯篭」は原話は江戸時代だが(もっと原話は中国の話だけど)、明治時代になってよく演じられた怪談。明治時代は文明開化の時代で、「幽霊なんていないんだよ」という時代だ。ガス灯ができて町も明るくなったから、幽霊がいても出難くなった。この幽霊騒動も実は悪人が新三郎の金を盗むためにでっちあげた嘘話だったという種明かしをするんだが、まぁ、ミステリーとしてはそれでもいいけれど、物語としては幽霊が出て来るファンタジーのほうが面白いし、怖い女の話というよりも、新三郎に恋して幽霊になっちゃう切ない女の物語のほうが心なごむかもしれない。

 

執念は人それぞれ

 

「怨み」だけでなく、「愛」でも幽霊は出るし、なかには金に気が残って死ねない、なんていう情けない幽霊もいたりする。そう。金や物に気が残って死ねない幽霊もいる。高価な骨董品なんかうっかり買うと、もれなく幽霊がついて来たりもする。ついて来ても何するわけではないけれど、その物を大事にしないと祟ったりする。

なかには死んだことに気がつかなくて、そのまま幽霊として暮らしているなんていう間抜けな幽霊もいる。いや、間抜けじゃない。幼い子供を残して死んだ親が、子供成長を見守り続ける、なんていう物語もある。

幽霊も思いも人それぞれ。怖いだけじゃない。いろんな幽霊がいて、幽霊の数だけ物語がある。だから、科学がこれだけ発達して、誰も幽霊を見たことがなくても、怪談は語り続けられているんだ。

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桂歌丸さんを勝手に悼む

桂歌丸さんの訃報をネットのニュースで知った。

今年は落語家さんがよく亡くなる。月亭可朝さん、古今亭志ん駒さん、立川左談次さん、都家歌六さん、柳家小蝠さん……、他にも関西の落語家さんで亡くなった方が何人かいる。

桂歌丸さん、人気テレビ番組「笑点」でおなじみだったから、メディアなどでも大きく取り上げられている。国立演芸場で「真景累ヶ淵」や「怪談牡丹灯篭」など、明治時代の名人、三遊亭圓朝が作った人情噺、怪談噺の連続公演も行っていたことも、ネットの記事などでも取り上げられていた。ツィッターフェイスブックなど、多くの人が現代の名人の死を悼んでいる。多くの人たちにその話芸が愛されていた。

 

桂歌丸、7月2日、慢性閉塞肺疾患で亡くなる。81歳。

 

笑点」の人気者

 

笑点」、今でもたまに見ます。日曜日家にいる時ね。夕方、あー、そうだ、と思ってチャンネルを合わせる。歌丸さんは、司会は2016年に引退したが、番組開始前の「もう笑点」でメンバーとのミニコントには出演していた。

笑点」で懐かしいのは、歌丸さんと三遊亭小円遊さん(1980年没)との丁々発止のやりとりだった。子供心にも覚えている。悪口の応酬、お互いに落語家だから、あー言えば、こう言う、やられても黙っていない、倍返しの一言に「やられた」という悔しい顔を見せる。そんなやりとりが面白かった。

歌丸さん、小円遊さんともに落語芸術協会の修業仲間で、ホントはかなり仲良しだったらしい。いや、仲良しかどうかはわからない。小円遊さんは大酒飲みで、歌丸さんは下戸、お酒が飲めなかった。そんな二人が当時(昭和50年頃)、日本酒のコマーシャルに出演していた。国際俳優の山村聰さんをはさんで、三人でうまそうに酒を酌み交わす。歌丸さんは下戸なのに、酒を飲む形が綺麗だったのを覚えている。

歌丸さんと小円遊さんのやりとりは、のちに歌丸さんと三遊亭円楽さん(当代)に受け継がれた。

 

人情噺の名人と言われたが

 

国立演芸場で毎年、夏に「真景累ヶ淵」「怪談牡丹灯篭」「江島屋騒動」など、明治時代の名人、三遊亭圓朝が作った人情噺、怪談噺の連続公演も行っていた。「真景累ヶ淵」は5枚組のCDになっている。

真景累ヶ淵」は長い噺で、江戸から明治の頃は寄席のトリは連続ものの人情噺を毎日口演した。お客さんは続きが聞きたくて毎日寄席に通って来る。「真景累ヶ淵」や「怪談牡丹灯篭」も十五日間掛けて(明治の頃の寄席は十五日間公演だった)口演したが、「真景累ヶ淵」は圓朝の人気でどんどん長くなっていった。現在売られている岩波文庫で300ページある。

「豊志賀」という場面が出色で、「豊志賀」のみを演じる落語家は多くいるが、他の場面はあまり演じられていない。人情噺を得意とした昭和の名人、六代目三遊亭圓生や八代目林家正蔵は発端の「宗悦殺し」から連続で口演もしていたが、途中の「聖天山」という場面までしか演じていない。ちなみに「聖天山」は岩波文庫で163ページである。だいたい半分。その先が何故演じられていなかったか。岩波文庫で全部読んでわかった。その先は怪談でなく、仇討ち話になっていて、毎回波乱万丈ではあるが、あまり面白くない。だが、謎の比丘尼が実は主人公の新吉の母親だとわかるラストの展開が面白い。歌丸さんは後半からラストまでを一席にまとめて「お熊の懺悔」として口演していた。かつての名人たちも口演していなかった物語の完結を見事に語った。

話芸ももちろんであるが、「人情噺の名人」と呼ばれたのは、そうした作業で噺を復活させた功績も大きいと思う。

 

新作落語の先駆者だった

 

ツイッターフェイスブックで多くの人が歌丸さんを悼んでいる。

心温かいコメントが多い中、「最後の人情噺の名人」だとか、言っているコメントを読むと、がっかりする。歌丸さんはスゴイ落語家だが、「最後の名人」ではない。メディアに出ている人だけが落語家ではない。

古今亭志ん朝さんや五代目柳家小さんさんが亡くなった時に「落語の終焉」などと言った演芸評論家がいたが、確かにひとつの時代の終焉なのかもしれないし、名人の死で落語そのものが変わってゆくというのもわからなくはないが、決して「終焉」ではないのだ。

人情噺に取り組んだ歌丸さんの落語魂は、お弟子さんはじめ多くの後輩たちに受け継がれてゆくはずである。

それは何も人情噺だけではない。

人情噺と「笑点」ばかりがメディアでは取り上げられているが、実は歌丸さんは、晩年は古典落語で活躍していたが、若手の頃は新作落語でも活躍していたのだ。

歌丸さんの最初の師匠は五代目古今亭今輔さん。おばあさん落語の新作落語で売った人だ。そして、事情があり移った二度目の師匠が、今輔門下の兄弟子で、当時、新作落語のプリンスと呼ばれていた桂米丸さんだ。ちなみに米丸さんは現在93歳、現役最高齢の落語家として活躍している。

今輔さんは新作落語のほかに、「江島屋騒動」など圓朝ネタも手掛けていたので、歌丸さんが後年、圓朝ネタに挑んだのも亡き師匠の志を継いだところもあるのかもしれない。

今輔さん、米丸さんのもとで修業した歌丸さんは、最初は新作落語を高座に掛けることが多かった。実際に筆者も、子供の頃、テレビやラジオで歌丸さんの新作落語を聞いたことがある。

「きゃいのう」「釣りの酒」(作・有崎勉)、「姓名判断」(作・古城一兵)、「旅行日記」(作・初代林家正楽)など。「きゃいのう」なんて面白かった。歌舞伎の脇役専門の役者の噺で、腰元役でもらった科白が「きゃいのう」だけ。なんだよ、その「きゃいのう」っていうのは。腰元三人が出て来て割り科白になっていて。「むさ苦しい」「とっとと外へ、ゆ」「きゃいのう」、なんでそんなところで科白を切るんだ。リアリティなんてない。落語だから。面白くしているんだけれど、それを話芸でさらに面白く聞かせるのが落語。この「きゃいのう」役者の鬘の中に煙草の火玉が飛んで入って、舞台で腰元の頭から煙が、という噺だ。

歌丸さんは芝居好きだったし、釣りも趣味だった。「釣りの酒」なんていう噺も、自分の趣味を語るから面白かった。

五代目柳家つばめさんの著書「落語の世界」(河出文庫)で、歌丸さんが新作に取り組んでいる姿が書かれている。台本はあっても、古典落語のように師匠や先輩から教わるわけではない新作落語は、演じ方を自分で考え、お客さんとのやりとりで作り上げてゆく。「落語の世界」の中で歌丸さんは「辛くても、やらなきゃいけないんだ」と新作落語をやり続ける使命感を語っている。

歌丸さんはある時から古典に転じた。それは「笑点」のイメージもあったし、新作をやりながらも圓朝ネタを演じた今輔さんの志を継ぐ意味でもあった。

寄席では「紙入れ」「粗忽長屋」「雑俳」なんていうネタでおおいに笑わせた。そして、「鍋草履」「おすわどん」「城木屋」「小烏丸」など他の人のやらない古典落語を復活口演もした。復活口演が出来たのも、先輩に教わるだけの古典落語でなく、新作落語を作り上げてゆく作業を培っていたからできたことだろう。

六十年を超える落語家生活の紆余曲折が、歌丸さんの高座に溢れていた。それが笑いのうちに綴られる。「笑点」の歌丸さんであり、人情噺の名人であり、寄席の爆笑落語家であり、そして、かつては新作落語家でもあった歌丸さん、「落語しかない」と語っている姿が追悼番組で流れたが、いろんな落語家の顔を持っていた。

 

 

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水戸黄門はホントに漫遊をしたのか?

「漫遊なんて、するわけない」

話は終わってしまう。

多分、してはいないと思う。してないんだけれど。テレビでもおなじみだし。いまはもうやってはいないが、1969年~2015年まで、TBSで月曜夜の8時という、ゴールデンタイムに時代劇「水戸黄門」は放送されていて、高視聴率を取っていた。

徳川家康の孫で水戸藩主、前の中納言、天下の副将軍の徳川光圀が、隠居したのち、諸国を漫遊して悪を懲らして世直しをするという話。

TBSでは、東野英治郎西村晃佐野浅夫石坂浩二里見浩太朗が光圀役をつとめた。2017年にはBS放送で武田鉄矢と続いた。その前は、映画の時代で、水戸黄門と言えば、月形龍之介の専売特許だった。

さらに前は、講談、浪曲の「水戸黄門漫遊記」がおなじみで、こちらは関西のお笑い系のネタだった。東京の講談では、光圀伝と、漫遊記の両方がある。助さん格さんを供に連れて漫遊する前に一度、松雪庵元起という俳諧師と二人で東北を旅している。松尾芭蕉の「おくの細道」にヒントを得たものなのだろう。松雪庵元起は越後高田24万石の家老の息子で、お家騒動解決のために光圀を越後に連れて行くのが目的だったという物語になっている。

その後、助さん、格さんを連れて東海道から西国まで旅をする。助さん、格さんの他に、講談、浪曲では、九紋龍の長次という元盗賊が旅に加わる。忍術を使える一方で、ちょっと間抜けで、食いしん坊というコメディリリーフで、TBS版で活躍する風車の弥七うっかり八兵衛を併せたようなキャラクターである。

ちなみに、2002年から13年間、黄門役を務めた里見浩太朗は、東野英治郎の後半から西村晃の前半(1971~1988)に助さん、東映月形龍之介で格さんを何作か演じている。格、助、黄門と演じているのは里見くらいだろう。

 

助さん格さんは実在の人物

 

水戸駅の北口には、助さん、格さんを従えた光圀の銅像が建っている。ちなみに南口には納豆の像が建っている。納豆の像は藁にくるまった納豆のモニュメントで、なかなかユニークである。それはどうでもいい。

助さん、格さんは実在の人物である。

助さんはドラマでは佐々木助三郎、実名は佐々宗淳、格さんはドラマでは渥美格之進、実名は安積覚兵衛、ともに儒者で、なんでこの二人が黄門の供のモデルになったのかと言うと、光圀が「大日本史」編纂のため、全国の資料を収集するために全国に遣わせた儒者の中に、佐々と安積がいたそうだ。

大日本史」とは光圀が編纂をはじめた歴史書で、神武天皇から後小松天皇(南北朝の統一)までを記した。光圀亡き後も水戸藩の事業として続けられ、幕末の尊王運動に影響を与えた。

ちなみに格さんの墓は、水戸市内にあり、墓地には「格さんの墓」という幟が立っている。観光で訪れる人もいるのだろう。

 

黄門は中納言の意味

 

徳川光圀は、1628~1701。徳川頼房の三男で、家康の孫に当たる。尾張紀州と並ぶ御三家のひとつ水戸の藩主で、徳川将軍家に後継者がいない時に、尾張紀州のいずれかより将軍を出し、水戸は副将軍を務める立場にあった。

実際には、七代将軍に後継者がなく、紀州から吉宗が八代将軍。十三代将軍に後継者がなく、また紀州から家茂が十四代将軍、その家茂にも後継者がなく、十五代、最後の将軍は一橋家に養子に行ったとはいえ、水戸出身の慶喜がなった。

若き日の光圀はかなりヤンチャをしていたらしい。講談のエピソードでは、頼房が若き日の光圀のヤンチャを懲らすために、一人で刑場から「生首を持って来い」と命じたら持って来た。「怖くはなかったのか」と問えば、「怖いのは生きている人間で、死んだ人間が怖いわけはない」と言ったという。なかなか胆の据わったヤンチャぶりだ。

実兄、頼近が妾腹であったため水戸家を継ぐことが出来ず、讃岐高松藩主となる。そこで、光圀は、自分の後継者に頼近り子を迎え、自らの子を高松藩主とした。兄を重んじる儒教の教えに従ってのことだ。

1661年(寛文1)、水戸藩主となり、中納言の官位を受ける。ちなみに「黄門」というのは唐の国の中納言の呼称で、長安の黄門を守備する役職だったから。だから、中納言は「黄門」なのだが、「祖師を日蓮、大師を弘法」と言うように、「黄門と言えば水戸」なのである。その代々の「水戸黄門」の中でも、「水戸黄門と言えば光圀」なのは、やはり講談、そして、映画、さらには高視聴率のドラマの影響が大きい。

1690年(元禄3)に隠居し、翌年、西山荘に移り隠棲、このおり佐々宗淳、安積覚兵衛らが同道したという。以後、亡くなるまでの10年間を西山荘で過ごす。この間に、漫遊の伝説が生まれた。

たとえば、講談で、湊川の地(いまの神戸)を訪れた黄門一行が楠木正成の荒れ果てた墓を建て直すエピソードがある。墓の建造―には金が掛かるので、大名行列で通り掛かる大大名から光圀自らが寄付を頼むという話。頼むんじゃないね。だって、光圀に頼まれて「嫌」と言う大名はいないから、早い話が権力者による略奪みたいなものだけれど、後醍醐天皇に忠義を尽くした英雄、楠木正成の墓を建造するという大儀がある。いや、目的が崇高なだけに、ますます「寄付は嫌」とは言えない。

これなども実際は人づてに楠木正成の墓が荒れ果てていると聞き、光圀が声を掛けて寄付を集めたという話がもとになっている。

 

光圀語録

 

光圀語録というか、いくつか名言も残している。

「気は長く、勤めは堅く、色薄く、食細うして、心広かれ」

ようは人間、寛容の心を持てという意味なんだろう。「食細うして」はドラマではよく食いしん坊の八兵衛を怒っているが、「色薄く」は自身が若き日のヤンチャ時代は、色に迷ったこともあったらしいから、あんまり偉そうなことは言えまい。むしろ、若き日に迷ったればこそ、しみじみ戒めているというのもあるかもしれない。

「見ればただなんの苦もなき水鳥の、足に暇なき我が思いかな」

多分、水鳥が足を動かしているのは、さほどの苦労でもないと思うが。まさに、「人生、楽そうに見えても苦がある」ということを言いたいのだろう。

私がサッカーを嫌いな理由

いま、この原稿を書いている時点で、テレビでは「サッカーワールドカップ」の試合をやっているらしい。

別に関心もないし、というより、私はサッカーっていうスポーツが好きではない。

私が好きではないだけで、他の人が好きでも、その人のことを否定はしない。

事実、友達にもサッカー好きは何人かいる。

中には、海外の試合に応援に行く、もの好きもいたりする。

海外旅行に行って、サッカーの試合を見て面白いのか。海外旅行は、景勝や名所旧跡なんかを見たり、南の島でのんびりしたり、日本で見られない演劇とか見たり、普段食べない料理を食べたり、地元の人たちと触れ合ったりするものなんじゃないのか。もっとも、フーリガンと殴り合いでもすれば、貴重な触れ合いになるのか。

 

全体主義に嫌気かぜさす

 

私がなんでサッカーが嫌いか。

まず第一に、全体主義が嫌いだ。一丸となって日本を応援する、みたいな。さっきフーリガンと言ったが、応援するのは勝手だが、自分の応援しているチームが負けたからって暴徒と化すことはあるまい。たかが試合だ。勝つもあれば負けるもある。そら、選手は給料が掛かっているから、負けるわけにはいかんだろうが、ただ応援しているだけの我々がなんであそこまで熱くなれるのか。

そら見知らぬ国同士の試合よりも、なじみの国が出ていて、その国を応援したほうがスポーツ観戦は楽しいだろう。国内の試合だって、たとえば大学や高校の試合に母校が出ていれば応援したくなるのは人情だ。それと一緒で、国際試合に日本が出ていれば、日本を応援したくなる気持ちはわかる。選手の名前だって知っているだろうし、応援しやすくもある。だからと言って、日本を応援しなくちゃいけないわけでもあるまい。

日本対外国の試合で、日本を応援しなければ「非国民」みたいな風潮が嫌なのだ。それは何もサッカーに限った話ではない。他のスポーツにもあることだが、ワールドカップやJリーグや、日本人選手の海外での活躍でサッカー人気が盛り上がるにつれ、日本人なら日本を応援という風潮が、とりわけ強まっている気がする。

私だって、日本を応援したい気持ちはある。あるけれど、「応援しなくちゃならない」と言われると、「なんで?」と言いたくなる。

相手チームにファンの選手がいるかもしれないし、何度か行ったことのある国だったり。日本の次に好きな国だったら、日本を応援しながらも相手チームを応援したっていいじゃないか。客観的に、どっちが勝とうが負けようが、試合を楽しむ、選手のテクニックを楽しむ、そういうスポーツ観戦のやり方だってある。

それをサッカー観戦に関しては認めようとしない。そういう風潮がまず嫌いだ。

 

サッカーは新自由主義

 

それは君がサッカーを知らないから、そんなことを言うんだ。

応援で皆で盛り上がるのは楽しいよ。

楽しくはないと思う。

確かに、私はサッカーをよく知らない。知らないものは「興味がない」くらいに言って、黙って見なければいいだけだと思う。「嫌い」だなんて言って、わざわざ「好き」な人の反感を買うこともあるまい。

そのくらいはわかっている。わかっている上で、自分の意思表示として「嫌い」と言っておきたいので、あえて書く。

好きな人を批判はしない。勝手に応援していてくれ。だが、私は「嫌い」だからね。

私もルールくらいは知っている。子供の頃はやったことだってある。別に選手だったわけじゃないよ。男子は皆、一応はやるんだ。木と木の間がゴールでさ。ただボール蹴っているだけ。それでも、やったはやった。そこそこ楽しかったと思う。子供だから。何も考えずにボールを思いっきり蹴れば、多分楽しいと思う。

あと、体育の授業でもやった。だから、ルールも知っている。

サッカーには反則に厳しい。プロなら、レッドカードとかイエローカードとかいうペナルティもある。

そら、サッカーでキーパー以外がボールを手でもって走ったら、サッカーじゃなくなる。オフサイドありなら、ぽこぽこ点も入るだろう。ボールを持っていない選手を押したり蹴ったりは危険だ。アメリカンフットボールじゃないが、危険なプレイは命取りにもなりかねない。だから、厳しく禁じられている、はずだよね。

ところがサッカーの試合を見ていると、反則プレイは実に多い。しかも反則プレイをしても、審判にみつからなければペナルティを取られない。

相撲なら「もの言い」がつくが、誰も手を上げない。っていうか、サッカー場のまわりには審判員はいない。フィールド上にいる審判が審判で彼に見咎められなければ、反則にならない。もっと言えば、いかに審判の目を盗んで反則をして味方を有利に導くか、そういうスポーツなんじゃないかと、私は思う。

よく知らないからね。間違っていたら、ごめんなさい。

それが、たとえば、学生の試合はあまり反則がないのに、レッドカードとかイエローカード取られるような選手権やプロの選手になると、反則の率が高まるような気がするが、それは私の気のせいでしょうか。

勝負はね、勝つか負けるか、あるいは勝っても負けても楽しければいいというスポーツもある。プロや、国の看板背負った国際試合は楽しければいいってことはない。勝たねばならない。とくにトーナメントなら、負けたら終わりだ。プロ野球みたいに、勝ったり負けたりしながら、最終的に一番勝ってりゃ優勝とか、相撲みたいに勝ったり負けたりして、なんとかむ8勝すれば番付が下がらないとか、そういうのもあるけれど、たいていのスポーツには負けは許されない。

勝つためには、技術を磨くというのがあるが、サッカーの場合、審判に見咎められないように反則をするというのも技術のうちである、というのがあるのではなかろうか。しかもそれが命取りになりかねない危険な反則プレイの場合がままあるのだ。

それはいまの時代を象徴しているとも言えなくはない。

経済において、多少のアンフェアなことをやっても、勝ちは勝ちという風潮だ。

昔から「勝てば官軍」という言葉がある。過程はどうでもいい。勝てばいい。一生懸命、真面目に努力しました、なんていうのはどうでもいい。多少、こずるく立ち回ろうと、勝てばいいんだ。

もちろん、サッカーがすべからくそんなプレイばかりではない。

すばらしいディフェンス、オフェンスの応酬で、難い守りをくぐりぬけてゴールが決まった感動は、そら、見ていて熱くなるけれども。

でも、まれに見掛ける、咎められない反則プレイを見ていると、現代の新自由主義の、勝てば何やってもいいんだよ、人を踏みつけにしてもいい。負けた奴は、うまく立ち回れなかった弱者で、そんな奴に手なんか差し伸べる必要はない。という景色に似ているなぁ、と思ってしまう。

もっとも、サッカーの選手たちは勝っても負けても、お互いの雄姿を称え合って、さっきまでの敵味方が抱き合ったり、ユニホームを交換したりもしている。その姿は感動的なんだけれどもね。その頃、試合会場の外ではフーリガンが乱闘してたり。

ええ。そんなわけで、「私はサッカーも嫌い」だし、「新自由主義はもっと嫌い」である。

「そば」と「うどん」の話

東西の食文化の違いはよく言われているが、比較されるものに「そば」と「うどん」がある。関東人が好むのが「そば」、関西人が好むのが「うどん」だ。

 

「そば」の歴史

 

「そば」はもともとは代用食だった。米の食べられない地方の農村で、団子や餅やそばがきにして食していた。

今日、我々が食している細い麺状の「そば」として登場するのは、江戸時代、明暦の頃(一六五五)といわれている。「うどん」を模して細い「そば」に作られた。そば粉はうどん粉と違って麺状にはならないため、つなぎに工夫がなされた。俗に二八そばというのは、「そば粉が八割でつなぎが二割」などと言われている。そば粉八割では、かなりパサパサしていたようだ。

落語などでは、「そば」一杯の値段が、一六文だったところから、二×八で一六文の洒落で「二八そば」などと呼ばれた。一六文は江戸の後期でだいたい四百円くらいと思ってよい。

江戸も二六八年あるから、物価もまちまちで、一六文だとは一概には言えない。幕府がデフレ政策で物価を抑制した寛政の頃は、「そば」の値段も一四文になり「二七そば」と呼ばれていた時代もあったし、幕末のインフレの時代には二四文に値上がりしたそうだ。

 

「うどん」の歴史

 

一方の「うどん」である。うどんの歴史は、平安時代にさかのぼる。弘法大師空海)が中国から伝えたというのは伝説だろうが、讃岐うどんなんていうのもあるから、あながち嘘話とも言えないかもしれない。

庶民の食べ物となったのは、室町時代。江戸時代になると、田舎の村々で麺類の製造が行われ街道筋の茶店などでうどんの販売が行われ、それが江戸や京、大坂でも食されるようになった。

「うどん」も最初は麺状ではなく、ワンタンみたいな形で汁に浸して食べていた。やがて色々工夫がされ麺状になった。そばが登場する前は、東西問わず、麺類と言えば「うどん」だった。それが江戸では「そば」が流行し、関東の「そば」に関西の「うどん」の二大食文化圏が形成された。現代でも、関西に行けば、「うどん」である。

 

江戸っ子はそばが好き

 

江戸っ子が「そば」好きな理由は簡単だ。

「早い、安い、うまい」。

かけそばなら、さっと茹でて汁を掛けて出すだけだから、すぐに食べられる。値段は安価だ。江戸も後期になれば、出汁などに工夫もされて、うまい「そば」が食べられたのだろう。

江戸は外食産業が発展した。江戸庶民の住宅事情が理由だ。江戸庶民の住宅は狭かった。独身男性の多くが住んでいた俗に九尺二間といわれる長屋の面積は約三坪。寝起きするだけで、家で調理をして食事をするには負担が大きい。そんな住宅にも土間の台所はあったが、米を炊くへっつい(竈)があるくらいで、他の煮炊きの設備はなかった。米の飯は炊いて食うが、おかずは沢庵か梅干だけというのが江戸の庶民の食生活。

だから、よく外食をしたのだ。寿司、そば、天ぷら、鰻、煮売りの惣菜‥‥。中でも、江戸の庶民にもっとも愛されたのは、「そば」だった。

どんな「そば」が江戸っ子に好まれたのか。落語の「時そば」の科白に、江戸っ子の好んだ「そば」が描かれているので紹介しよう。

麺は、細くてポキポキしてるのがいい。出汁は、鰹節をおごったものがいい。丼は奇麗で、箸は割り箸、塗り箸や一度使った割ってある箸はいけない。先っぽが濡れていたり葱がぶらさがってるなんてえのは論外。そして、種物と言われるそばの具は何が好まれたのか。「時そば」では、「花巻」に「しっぽく」が登場する。「花巻」は海苔のかかったそばで、これは現在の東京のそば屋でもよく見掛ける。「しっぽく」は東京のそば屋にはあまりない。蒲鉾、しいたけ、玉子焼きなど色々な具の乗ったちょっと豪華なもので、現在では関西風のうどん屋で食べることが出来る。もっとも、「時そば」に出て来る「しっぽく」は竹輪が一枚ようやく入っているだけのごくシンプルなものである。

二八そば、夜鷹そばと呼ばれる屋台の荷担ぎそば屋がたいそう流行した江戸の街で、現在のような店舗営業のそば屋が登場するのは、江戸も後期になってからだ。たちどころに需要が増え、町内に一軒は、そば屋があった。

メニューは、もり、かけが一六文、花巻、しっぽくが二四文、天ぷらそば、卵とじが三二文‥‥。これは幕末より少し前の頃の基本的な値段の一例で、店によっても時代によっても異なったであろう。せいぜいが海苔か竹輪を乗せた、花巻、しっぽくしか出せない屋台のそば屋と違い、天ぷらや卵とじもメニューに加わったというのが、店舗営業のそば屋のいいところだろう。現在にないメニューでは、貝柱を乗せた「あられそば」などというのもあったそうだ。

もりそばは、食事というよりも、おやつ代わり。二、三枚も腹に入れようじゃないかという町内の連中が集まって来て、わいわいやっていた。床屋や湯屋(銭湯)同様、そば屋も江戸っ子たちの社交場のひとつだったのだろう。

 

「きつね」と「たぬき」東西の違い

 

メニューの話が出たついで。

東京では現在でも、「きつね」「たぬき」というメニューがある。

「きつね」は醤油で甘辛く煮た油揚げが入っている。「たぬき」は揚げ玉が入っている。どちらも、「そば」か「うどん」を選べる。

ところが関西では事情が違う。関西には「きつねそば」「たぬきうどん」というメニューはない。「きつね」「たぬき」というメニューはある。関西では、「きつね」と言えば「うどん」のことで、「たぬき」と言えば「そば」。どちらも油揚げが入っている。

つまり、東京で言う「きつねうどん」が関西では「きつね」、「きつねそば」が「たぬき」になる。

では、揚げ玉、つまり天かすの入っている「うどん」はなんと言うのか。

関西のうどん屋では、揚げ玉はサービス品。無料で入れられる。「そば」「うどん」を注文すれば、揚げ玉は入れ放題なのだ。

関西人に、「東京では揚げ玉の入ったうどんをたぬきうどんと言って、かけうどんよりも値段が高い」と言うと、

「東京のうどん屋はがめつい」と言われる。

関西人にがめついと言われちゃ世話はない。

ちなみに、蒲鉾や筍、鳴門なんかが入って、おかめの顔にデコレーションした東京の「おかめそば」は関西にはないらしい。

「そば」「うどん」のメニュー一つでも、東西で異なる文化がある。

 

江戸っ子は何故うどんが嫌いか

 

江戸っ子は「早い、安い、うまい」の「そば」が好き。

似たような麺類、いや、歴史的に言えば、「うどん」を模して「そば」は作られたにも関わらず、「うどん」は実に評判が悪い。

理由は、「遅い、高い、まずいかどうかはともかく、そばのようなうまさはない」。

太くて、ネチネチして、歯ごたえが悪い。そばは噛まずにツルツルツルといけるのに、同じ麺類でも、うどんはツルツルツルなんてやったら喉にへばりついちゃう。第一芯まで熱々だから火傷でもしかねない。ニチャニチャニチャと噛んで食うのが江戸っ子には歯がゆい。

栄養があって腹いっぱいにはなるが、胃にもたれる。

鍋焼きうどんだから、作るのにも時間がかかるし、具が入っていて値段も高い。

売り声がまた間抜けだ。「なーべやーき、うどーん」。妙にのばして声をあげるのが野暮ったい。

ようは、うどんなんて江戸っ子の食い物じゃねえ、田舎者の食い物ということだ。

しかし、江戸の街にはそば屋だけでなく、うどん屋も営業していた。

何故だ?

関西人の食い物と言われながらも、江戸でもうどんが食されたのは、江戸が田舎者の街だったからだ。江戸っ子と言ったって、もとを正せば地方から出て来た労働者が多い。それが何年かの時を経て、江戸の水で洗練されて、ようやく江戸っ子になるのである。江戸っ子未満の田舎者が大勢ひしめいていたのが江戸という街なのだ。

それと、江戸の冬はとにかく寒かった。底冷えのする寒さ。加えて筑波おろしが吹きすさぶ。冬の寒い晩には、炬燵や火鉢では足りない。腹から温まるものが欲しい。そんな時には、熱々のうどんを時間を掛けて、口の中から腹の中に熱さを感じならが食すのは、まさに至福のひと時であったろう。

寒い晩ばかりは江戸っ子返上、なんていう人も多かったのではないか。

科学が発達して私たちは幸福になったのか?

子供の頃から家にテレビがあった。だから、アニメを見て育った。「鉄腕アトム」やら「鉄人28号」なんていうのを見ていた。人型ロボットが人間と共存している社会、そんな風景が自然にすりこまれていた。

サイボーグ009」になると、人間でありながら、一部が機械化されたサイボーグで、彼らはほとんど人間として暮らしている。しかし、戦闘サイボーグだから、足の関節からミサイルが発射されたり、口から火を吹いたり、夢があるんだかないんだかわからないけれど、子供としては心ときめくものがあった。

機械化される社会がもの凄い格差社会になっていると警鐘をうながしたのが「銀河鉄道999」で、現実に迫った近未来を思春期の子供なりに思いをめぐらせたものだ。

そして、時代は21世紀となった。

20世紀後半には、家にはパソコンがあったし、携帯電話も持っていてた。パソコンは主に仕事で使っていた。携帯電話はお姉ちゃんと仲良くなるためのツールとして、わりと早くに手に入れたが、お姉ちゃんから掛かってくることはあまりなく、こっちから掛けると留守番電話という新たな機能と遭遇した。

 

鉄腕アトム」の電話は黒電話だった

 

そう言えば、「鉄腕アトム」に登場していた電話はダイヤル式の黒電話で、コードはクルクルまるくなっていて伸び縮みするものだった。当時は黒電話が最新テクノロジーで、電話のある家も少なかった。最新で超カッコいいくるくるコードの黒電話がテクノロジーの象徴でもあったのだろう。

諜報部員みたいな奴らは時計や万年筆に無線やカメラを仕込んでいたりしたが、まさかわずか3、40年後には、一般の人が電話とカメラがついた、10センチくらいの携帯電話をポケットに入れて持ち歩くようになるとは、夢にも思わなかったであろう。

 

科学はいろんな方向に動いていて、SFでは創造しきれない世界に動いている。

ジュール・ベルヌの「月世界旅行」では、長距離大砲をより高性能にして月に向けて発射した。ロケットはその原理かもしれないが、「大砲」というビジュアルが小学生の時に読んでもかなりおかしかった。

鉄腕アトム」ではくるくるコードの黒電話もそうだが、「アトム」だ「ウラン」だ、近未来を支えているのは原子力である。別のSF小説で読んだのは、21世紀中頃には家庭用原発が各家庭に置かれて、なんていうのもあった。

60年代~70年代には原子力が未来を変える理想のエネルギーだった。

70年代後半くらいから、原発の危険性などに疑念を持つ人が増えはじめる。政府は「原発安全キャンペーン」をかなりやっていたことを記憶している。やがて、チェルノブイリ、そして、福島第二原発の事故が起こった。夢と崩壊が背中合わせという現実を、私たちは受け止めねばならなかった。

 

科学が発達して私たちの暮らしはどうなったのか?

 

どうなんだろうか。

科学万能を夢見た50年前から、パソコンや携帯電話が一般に普及した現代とで、私たちの暮らしはどう変わったのであろうか。

もう少し昔から考えてみると、昭和のはじめ頃は平均寿命が50歳くらいだった。もちろん昔も長寿の人はいた。でも平均寿命は50歳。平均寿命が延びたというのは、医学の進歩が大きいのだろう。治らない病気が治るようになった。予防医療も進んだ。

それ以上に一般に食糧などが行き届き、餓死や栄養失調も減った、というのが大きいのかもしれない。

戦後、食糧問題は改善され、昭和30年代半ばには平均寿命も65歳に上がっている。

いまは80歳を越えた。

高齢化問題など抱えている課題は多いが、元気にイキイキ生きられる世の中になったことはいいことだと思う。

 

移動は便利になった。都内ならJR、私鉄、地下鉄でどこにでも行かれる。いや、昭和30年代までは都電が網の目のように走っていて、今より便利だった、という人がいる。それは間違い。というか勘違い。都電と電車では輸送量が違う。早さも違う。のどかさが失われた? 都電は決して「のどか」ではなかった。昭和のはじめの流行語に「電車混むね」というのがあったそうだ。電車が混むことが流行語になるくらい、市電(都電)は混んでいた。

昭和40年代に都電が廃止されたのは、混雑の解消が理由のひとつで、地下鉄に移行することで混雑は解消された。

 

テレビ、ビデオ、パソコン、掃除機、冷蔵庫…。私たちは生活のどれだけを電気製品に頼っているのだろう。コンセントの数が尋常じゃない。まぁ、それもいまの人たちには普通のことになっているし、コードレスな家電商品もどんどん増えている。

ただし、やはり忘れてはいけないのが3.11東日本大震災の記憶だ。停電で一番困ったのはオール電化の家で、ドアすら開かなくなった。高層マンションのエレベーターが止まったり。冷蔵庫が止まれば、アイスは溶ける。生命機器を電気に通っている人は命の危険すらあった。

 

東京では「飢える」ことはない。しかし……

 

食べ物。少なくとも「飢え」はなくなった。日本の東京での話だけれど。

コンビニに行けば、夜中でもなんか食べ物はある。金がなくても。そら一文なしではしょうがないが、108円あれば、100円均一のお菓子やインスタント食品は売られている。とりあえずの空腹は満たすことが出来る。

それは科学の問題でなく、社会環境の問題だ?

いやいや。科学が発展して、加工食品なんかが手軽に食べられるようになったんだ。それでコストも下がった。

昭和30年代にチキンラーメンが、40年代にボンカレーカップヌードルが登場した時は驚いたし、便利な世の中を実感した。

ただし、加工食品は食品添加物などの問題もある。危ないからと言って、加工食品を食べずに天然のものだけを食べようと思ったら、コストが掛かる。

「遺伝子組み換え食品」なんて、科学が到達した究極な響きがあるが、さまざまな危険を含んでいる。これで食糧問題は解決! とならないのが科学の限界なのか。それともそこに未来が見出せるのだろうか。

SFだと、「スタートレック」で人類が宇宙を駆け回る22世紀には、食糧は分子レベルを生成して加工している。食糧問題なんてとっくに解決しているのだが、天然ものの食べ物を知っている21世紀世代の老人たちは、分子生成の食品を「まずい」と一言で切り捨てている。

 

パソコン世代との価値観の違い

 

現代の社会生活において、やはり一番大きな変化はパソコンと携帯電話だろう。

私の場合で言えば、字が下手だった。小学校の時に習字を習ったりもしたが、まるでうまくならなかった。一生懸命丁寧に書けば、なんとか読める字は書けたが、時間が掛かる。そして書いた字も「なに、これ、子供が書いた字?」とよく言われた。

いまから30年ちょっと前、ワープロが登場した時は、「これで人生が変わる」と思った。数十万出してワープロを買った。事実、人生が変わったと思う。書くことが苦手ではなくなった。そして、20年近くワープロ専用機を使っていた。

パソコンを使うようになって20年くらいになるのか。ワープロで打ったものをプリントして、FAXで送っていたのが、パソコンで打ったものをメールに添付して送るのが普通になった。

仕事だけでなく、ゲームはあまりやらないが、それでせも息抜きでやったことはある。通信はやはりメールは便利だ。便利だけれど、どうなんだろう。電話一本で済む用事が、何本もメールのやりとりをするようになった。それも今では、さらにライン感覚で、短いメールが何本も来る。正直、「うざい」と思うが、若い人たちは、いちいち電話のほうが「うざい」のかもしれない。

 

それでも科学で「夢」を追う

 

便利は危険をともなう。

それもやがて、科学が解決するのか。

交通事故は今でも深刻な問題だが、自動運転システムの発展で、それらがなくなる日も近いかもしれない。

メールの件もそうだが、世代によって、「慣れ」があって、私たちが苦手なことも、若い人にはすらすらこなせることもある。

これからも私たちは科学と適度に付き合い、科学の発展により得る便利さ、不便さを両輪に生きてゆくのだろう。

考えてみれば、地球が平和になり、宇宙に出て行ったら、宇宙人との戦争がはじまる。夢は膨らむが果てしない。なかなか実現しないから「夢」なのだ。